きょうも経済の話を書こうと思ったけど、放射性物質が農作物や、はては水からも検出されたり、刻々と状況が変化しているのでなかなか書きづらいな。。放射性物質が基準値を超えたところですぐにどうということは全くないのだろうけど、基準値を超えればやはり報告義務は果たさなければならんやろうし、痛し痒しなところやね。そんな僕は昨日あたりから地震酔いに悩まされている。2週間前のエントリにもあった通り僕は地震が苦手で、今回の震災の前から時折地震酔いには悩まされていて、今回の震災をきっかけとしてなぜかその症状が治った(震度3くらいでも鈍感になった)のだが、今になって再発している。どうしたものか。。
きょうの水道水のニュースに表されるように、震災を機に僕らは今まであまり経験することのなかった不便な生活を強いられるようになっている。でも考えてみれば、国によっては水道水をそのまま飲めるところの方が少ないし、時刻表なんてあってないようなものだし、ネパールなんて年がら年中1日の大半が計画停電になっている。なんて考えると、なんだ日本人がひ弱なだけじゃないか、と思ったりもする。もちろんそのひ弱さが存在するがゆえに、世界に冠たるきめ細やかでレベルの高いサービスを築き上げてきたのも確かだけど。
似た(?)目線でもうひとつ思うのは、日本のメディアは、遺体の写真を全く発表しないことに再度気付かされた。プライバシーの問題等もあって難しいのかもしれないが。それもあって、これだけの大震災があってもいまだ首都圏に住む僕らから「死」は遠く感じられる(もっともこれは各人の感受性によるものなのかもしれないが)
普段過ごしているだけではなかなか「死ぬ」ことに考えが至ることはないが、僕は中途半端に臆病かつセンチメンタルなので、山に登るときや僻地を旅しているときはしばしば、「ここで死んだらどうしよう」なんて考える。まぁほとんどただの自己満足でしかないが。でも、「死ぬ」ことについて多少なりとも考えた経験が、震災からの自分自身の心の動きになんらかの作用を及ぼしているはずだ。死ぬのはもちろん嫌だけど、今の自分は、死との距離を測ることができていると思う。死との距離が測れていると、心は落ち着く。そんなことをひ弱な僕はきょうも考えたりする。