なんのために生きるか。

またもや仙台。たまには日帰りではなく泊まりで行きたい。すっかり雪は溶けていて、日差しは東京のそれよりも強く、春が近づいていることを感じる。ありがたいことに花粉症の症状が止まる。

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電車の中やカフェで、今日二度ほど周りの席のおばさんが最近増えてきた地震の話をしているのが聞こえてきた。二度とも、「死ぬときはしょうがない、死ぬときはみんな一緒だから、自分だけ生き残ってもしょうがない」という主旨のことを喋っているのが聞こえた。

去年からいろいろなことが起こって、少し大げさに言えば誰しもが自分が死ぬような危険な目に遭うかもしれない、ということを意識したと思う。自衛のために生活の拠点を変えたり、防災や非常時に備えた準備をした人もいる。資産を海外に移した人もいるかもしれない。

僕自身も同じように自分が死ぬこともあり得るのかもしれないな、と考えたこともあるが、それと同時に、意外にも自分は生への執着が人に比べて薄いのではないだろうか、とここ1年で思うようになった。それは、根が楽観的で心の底から死の危険を感じていないからなのかもしれないし、「臭いものには蓋をする」がごとく、無意識に死の危険と向き合わないようにしているのかもしれない。

ひとつ確かなのは、格好つけた言い方になるが、他人を出し抜いて自分だけ生き残ることに気持ち悪さを感じているのだと思う。よしんばそうやって他人の犠牲の上に自分が生き残ったときに、そうして勝ち得た自分の余生を、良好な精神状態で過ごせないのならば、いっそのこと誰かのために犠牲になって死ぬほうがいい、と考えている。(確かこんなフレーズがMr.Childrenの『HERO』にあったような。)

本当に切羽詰った状況になればやっぱりどんなに格好悪く、他人に迷惑をかけることになっても生きたいと思うのかもしれない。そして生き残ってしまってから後悔するのかもしれない。

自分が死んだ後はどうなっても構わない、とも思わない。誰かの心の中に残って生き続けたい。そのために、と言うのもおかしいが、周りの人のことは大切にして生きていきたい。

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困難や試練は自分にとってのよい先生になる。それらに対して自分がどうふるまっていくか、試行錯誤していくうちに、自分の成長を感じる。自分に余裕があれば、困難や試練よありがとう、という気分に到達できることもある。いつも余裕を持つために、自分のコンディションを整えることもずいぶん上手になったと、自分でも思う。この1年は自分で自分を褒めてもいいと思う(周りから見ればいささか気持ち悪いだろうが笑)。