カンニング事件で考えた。

10年前の2月25日は、取手の駅前のホテルに友達と泊まっていた。その月は20日から早稲田を受けに東京にきていて、はや5泊目になっていた。洗濯物などどうしていたのだろうか。23日は空き日だったので、竹橋のホテルでぼーっとしていた。24日になって、東京駅で友達と合流して、そのまま適当に食事をして、夜は緊張感なくめちゃイケを見ていた。ツインの部屋に泊まったが、友達のいびきの音が大きすぎて、何度も彼の鼻をつまんだ。まぁひと晩くらい寝れなくともなんとかなるわ、と思って白みはじめる空を部屋の窓から見ていた記憶がある。朝が来て、ホテルの朝食を食べて、常磐線で土浦まで行き、土浦から臨時のバスに乗って、土浦ニューウェイを通り、大学に着いた。どよーんとした曇り空だった。そんなことを思い出した。


それから10年が経って、いま京大Yahoo!知恵袋カンニング事件が世間をにぎわしている。しかも、面白いことにこのカンニング事件に対する人それぞれの捉えようが、その人の「正義」「受験システム」「大学ってそもそも何なんだろう」「市場価値」「インターネットリテラシー」などなどに対する考え方やレベルを赤裸々に反映するなぁ、ということを感じる。メディアの報じ方は相変わらずだ。なもんで、会う人ごとにこの話題を振ってみて、反応を聞いてみる。こんなことしていると友達失くしかねないが。

僕個人の意見としては、完全犯罪としてカンニングができるのであれば、カンニングをすること自体が駄目だとは思わないし、今回の事件も、道義的には間違っているだろうが、なんだかワクワクする。ある意味でカンニングをした彼は京都大学に入るべき「高い能力」を持っているのではないかと思う。だいたい、持ち込みなし一発回答のテストなんて、大学受験以後はほとんど受けることなんてないことを思えば、大学受験のシステム自体が旧態依然すぎるし、そもそもどういう人材を採ろうとしているのかという、大学自身の存在価値に大きくかかわる命題に対して、あまりにも思考停止しすぎているのではないか、と思う。なにも面接をなにがなんでも導入すべきというわけではないが、より特色ある入学試験をそれぞれの大学が考え抜くべきなのではないか、と思った。特に英作文の問題などを今回久しぶりに見て、なんだこりゃ!と思った!