カフェ③。

(昨日の続き)

そういえば、昔の大阪にはいたるところにベンチがあり、オッチャンが所在なげに座っていたり、道ゆく人たちに自由気ままに声をかけたりしていた。20年前くらいだろうか、ジベタリアンという言葉もあった通り、コンビニの前にたむろする若者も多かった。いまはめっきりそういう人は見なくなった。郊外や地方のコンビニには代わりにイートインスペースができた。出張時には、カフェ代わりにこういった場所を利用することもある。都心のコンビニにはイートインスペースもない。人と会って話をしたり、1人でも休憩をする時にはほぼカフェに入るという選択肢しかない。都心になると地下鉄をのぞけば駅にもベンチはほぼないし、待合室も新幹線の通る駅にしかなくなったように感じる。キャパシティも足りていないので、結局ここでもカフェを利用するしかない。カフェ産業の隆盛というのは、街の公共スペースの縮小と表裏一体だったのだと思うし、ほんの少しのスペースであっても営利活動に注ぎ込まれることが求められるのが東京や大阪という街なのだなあと思う。唯一残っているフリースペースは公園だろうけど、ターミナル駅の周辺ではもはやそういうスペースも消えてしまった。これが街にとって良いのかどうかはわからないのだが、商売をするうえではきっと良いのだろう。ただ、その分なにかが切り捨てられているのも確かである。

カフェ②。

(昨日の続き)

ごくたまにホテルのラウンジにも行くのだが、ここは1杯1500円、場所によってはもっとする。トータルバランスを考えるとあまり積極的に行く理由がない。ハイクラスの喫茶店と比べても、密室感がなく、他愛もない話しかできない感じなのである。空間の広さが逆に仇になってしまう。むしろホテルニューオータニなどはいつもごみごみ混んでいるので、声が紛れてちょうどよい。このあたりの場所のケーキなどは、本当に手が出なくなってしまった。

 

そしてどのジャンルのカフェも(スターバックスタリーズも含めて)、都心は最近はいつも混んでいる。おそらくハイエンドの喫茶店が最も空いているくらいだ。地方もそうなのだが、これは街中にひと息ついて休憩できる場所が少なくなっているのも大きい。自分なぞはあまり羞恥心もないので、地方などに行けば街かどのベンチに普通に座ってパソコンを開く、ペットボトルのお茶を飲むくらいのことはしてしまうのだが、さすがに東京ではそのようなこともしなくなったし、そもそもそんなことをできる場所がほとんどない。わずかに、銀座駅溜池山王駅などに申し訳程度にワークスペースがある。(さらに続く)

カフェ①。

いまの勤務先はオフィスがいくつかの場所に分散しているのだが、応接スペースのないところも多く、いきおいお客さんと面談をする際にはカフェを使用することも多い。そういうわけで、カフェの使用頻度は週3-4回くらいはある。

 

頻度が多い、というか、選択肢がある時にまず選ぶのは、某地方ローカルから数年前に全国区に躍り出た某チェーンである。しっかりと席ごとにブースが分かれており、個室感がいくぶんでもある。それでも最近の店舗は都心では狭さが際立つようになってきて少し残念ではあるが、、店員さんが不足気味で待ちの列があるお店も増えてきており、頑張ってほしい。もうちょっと値上げしてもいいと思う。

 

ドトールベローチェはあまり行かなくなってしまった。単独で作業をする時くらいか。1人あたりのスペースの狭さがどうにも耐えられなくなってきた。お客さんとこみいった話はできないなあと感じる。

 

好きなのは、1杯1000円くらいのゾーンのハイクラスに属するチェーンなのだが、これはお値段、お財布事情からしてなかなか普段遣いはできない。こういうお店でアフタヌーンティーをしたり、好きなケーキを満喫したりするのはなによりの自分へのご褒美である。(明日へ続く)

せつな。

少し遠出。時間がそれなりに余裕があるので、気分もゆったりしている。がむしゃらにやっていた時期から、少し緩めはじめた。もちろんまだまだ油断できるものでもないし、できることはなるべく前倒し、そしてなるべく手を抜かないように気をつけてはいるけれども、現時点での自分のキャパシティもよく理解したうえで、無理はしない、自分をある程度甘やかしながらやっていくようにしている。

 

桜が目に眩しい。やっぱり、入学式のシーズンに桜が満開になるのが、正しい季節感だと思う。花粉症のツラさも消えてきたので嬉しい。どんなに人生が進もうとも、国の形がどう変わろうとも桜は毎年きまったように咲く。来年の桜は見られるだろうか、と思いながら眺める人もいるだろう。今年と同じように来年も何事もなく迎えられるだろう、と思いながらも、ふいにそれが叶わなくなる人もいるだろう。人生のわびさびを感じる。

 

昨日は花ざかりだった公園の桜も、きょう同じ場所を通ってみると、かなり散り始めて、こんどは公園の地面を花びらが敷き詰めるようになっていた。あしたの風雨であらかたが散ってしまうことになるだろう。

はなみ。

お花見日和。公園でお酒を飲む。いつもそうなのだが、桜を愛でながらお酒を飲むのが楽しいというよりは、単に外で酒を飲んでいても寒くない時期だということのほうが大きい。日没もだいぶ遅くなり、子どもたちも楽しく遊んでいる。

 

酒がはいると饒舌になってしまうのは自分も同じで、毎回なんやら失言をやらかしているような気がする。自分で自分を抑え、コントロールする意識を持てばなんとかなるのだが、たまにやることなすことが上手くいっているような時期があると、そういう時に限ってミスコミュニケーションが発生しやすい。要は、自意識過剰になっているとき、ということだ。

 

輪の中心でワイワイするというよりは、周りで気配りをしながら振る舞うくらいでちょうどよい。朝から活動した疲れもあるせいか、ちょっと飲んだだけで、ほろ酔い気分になってきた。あわてて、ミネラルウォーターを流し込む。

 

舞台の真ん中に踊り出るのはあまり得意でない。いい思い出はそれなりにはあるけれども。。巡り来る年月を実感する、春。

点を取る。

昔一緒に仕事をしていた人とパラパラと会う日であった。みな嫌な顔もせず元気か?と声をかけてくれて、ああよかったなと思う。4月から、そういうターンに戻ってきたのかもしれない。新しい風が吹き始めたが、それは昔のつながりの人との再会で、そこを起点にしてなにかが生まれる予感がしている。

 

自分を大きく見せすぎず、あくまでも謙虚に、やれることを丁寧にやる。結局は仕事なんてこの繰り返しである。もちろん仕事であるからして、結果が出ないことも時にはあるのだが、結果が出ない時まで想定して、人間関係を作っておき、単に言い訳にはならないような組み立てをしておく。ギリギリまで努力をするのは当然のことである。

 

過去、虚しくなることもあったけど、それは決して無駄なことでもなくて、一定の期間を経たあとに周りの人が見直して評価をしてくれることもある。だから、どんな時も手を抜いてはいけないし、自分に求められているのは、守備ではなくて、点を取ることである。

台湾地震。

台湾で大地震。人的被害はさほどではないものの、倒壊している建物も多い。そしてこういう時に、しっかり世界各国から支援の表明が入るあたり、台湾は外交をしっかり積み重ねてきたということがよくわかる。大陸中国の支援はきっぱりと断っている。

 

21世紀に入る頃までは、日本の人でも、台湾と大陸中国の区別がついている人は少なかったはずだ。それが、台湾は日本からも人気の観光地になり、台湾からの訪日客も多い、半導体産業を基盤として経済的にも既に日本に肩を並べ、ある面においては完全に抜き去ってしまったとも思う。

 

避難所の映像も流れてきたけれども、短期間にしっかりとしたものを作っている。もちろん街中の避難所と、能登のようにアクセス手段が限られているところで、初動の違いは仕方のないことではあるのだけど、台湾もしっかりと災害の準備をしてきたのだということがよくわかる。

 

まずは、必要な復旧が速やかになされることを祈る。