都知事選は既報の通り舛添氏当選。そして、開票の風景を見ているうちにひとつの思いが湧いてきた。脱原発を争点にしようと目論み、今回の都知事選に出馬した細川氏が敗戦の弁にて、「原発を争点にさせない力が働いた」などと陰謀論めいたことを述べたり、Twitter上で脱原発を標榜するお方たちが喚いている姿を見ているうちに、ああこれでひと段落なのかな、という思いが湧いてきた。
もちろん、脱原発への流れが絶えるとは思わない。都知事選の出口調査においても、即時脱原発と、段階的な脱原発を志向する有権者が過半数を占めた通り、脱原発を願う声は安定している。これは現在既に原発が動いていない状態で電力供給が保たれている(一昨日夜は大口契約者への使用抑制が行われたようだが)ことも一因であろう。ドイツのように再生エネルギー推進のための負荷金が電気料金に重くのしかかってきたり、電気の安定供給に支障が出るようなことになれば、やっぱり原発をある程度使うべきという人たちが、特に若い世代を中心に増えるのではないかと思われる。しかしながらそんなシナリオになる可能性は低く、今後も緩やかな脱原発を志向する人が増えるなかで、テクノロジーの進化(ちなみに、わが家の屋根のソーラーパネルは積雪25センチを経験して以後調子が非常に悪い。。)が追いついて自然に脱原発状態が定着していくのではないだろうかとふんでいる。
そんな脱原発の流れに対して、脱原発運動は追い風になるどころか、足かせにしかならなかった、というのがこの3年弱の総括だろう。具体的な成果と言えば山本太郎を当選させたことだが、山本太郎は脱原発の流れにおいて果たしてプラスの効果をもたらしただろうか。
結局のところ、脱原発運動というのはヒステリックな都市住民のなかでのみ起こった運動であり、原発に近い立地で生きる人たちを傷付け敵に回し、そういているうちにセクト化し、孤立化し、自己満足のための運動でしかなかったということだ。そして脱原発に関する議論は全く深まらず今に至る。今回の都知事選において、そのどうしようもなさは頂点に達し、そして脱原発運動は終わりを迎えるのであろう。脱原発派にとってこれだけの大チャンスが訪れていながら、彼らはそれぞれのメンツにこだわって、妥協をすることができなかった。そして、その有様に失望をした人も少なくないはずだ。
そして誰もいなくなった、と言ってもいいだろう。脱原発運動の終わりが、真の意味での脱原発への道のりのスタートと言えるのかもしれない。