立場をとる。

一時期仲の良かった先輩に久しぶりに会う。相変わらずな感じで懐かしかったのだけど、前よりも前向きにしっかりと目の前の仕事やその他諸々のことに取り組んでいるように見えた。

彼は昨年結婚し、今年子どもができるということだ。ちゃらんぽらんに見えて根は相当生真面目な彼のことだから、専業主婦の奥さんと産まれてくる子どものことを考えて、「立場を取って」いるのだなぁと感じさせられた。

最近自分のなかで「立場をとる」というフレーズが気に入っている。自分が抱えている仕事やら家庭やらのなかで、当事者意識をもってコミットする、というような意味で捉えている。いったん立場をとる腹を決めれば何でもかんでもそのスタンスを貫く、というわけでもなくて、仕事で立場をとっている人が家庭で立場をとっていない、あるいはその逆もあり得るのだと思う。

たいていの人はできることなら立場をとることなく生きられたらなぁと思う。立場をとることはプレッシャーのかかることではあるし、逃げられない(本当にもたない時は逃げてもいいのだけど)と感じることもあるだろう。意図して立場をとることを選んだ人もいれば、あれよあれよと外堀を埋められて立場をとらざるを得なくなった人もいる。そうして荷が重いと愚痴をこぼしながらも、立場をとって生きていくのだ。昔の人はほとんどみなが後者の形で、立場をとっていたのだろう。銀行員が比較的早婚なのも、身を固めて立場をとらせるようにする流れの一環だったように思う。

今は昔と違って、立場をとることなく生きることも可能な世の中になっている。責任を伴うことのない自由な生き方もできる。それでも、人は立場をとって生きるべきなのだと思う。それは、単に人から見て格好良く見えるというだけではなくて、そのように生きた方が自分でも楽しいし、立場をとって重ねた選択や決断の積み重ねが、自分にとってかけがえのない財産となる、と感じているからだ。

立場をとらないことは否定されるべきではないけれども、一点注文をつけるならば、立場をとらないことに起因する行動を周りに振りまくことは醜い。「政治のせい」「上司のせい」などと言うのもそのひとつだ。僕も学生の頃はそんな醜いことをよくしていたし、今も多分している。していなかったとしても、そういうふるまいをしたくなる自分の心を抑えずにはいられないこともよくある。

立場のとり方、その深さも人によって異なるだろう。僕はいま周りのことにどれだけ立場をとっているだろうか。自分ではよくわからなくて、誰かに見てもらわないと見えないものなのだと思う。