恥との距離。

月曜日に休みを取って小雨模様の鎌倉へ。意外にも1日まるまる休みを取ったのは今年に入って初めてのことだった。あまり休みを取らないでいると、それが当たり前の生活だったかのように思えてきて、その生活を所与の条件にして日々過ごせるように自然とリズムがカスタマイズされる。そして休みを取ると、アスリートが練習をサボったかのような(本当は必要のない)罪悪感にさいなまれる。なんにせよ、ど平日になんの憂いもなく休めるのはありがたい。

★★★

我ながら恥の多い人生だと思う。

思い出すだけで赤面して、「うわー」と独り言が出てしまったり、恥ずかしさのあまり転げ回りたくなることがいくつもある。もっと言えばこんな文章を毎日垂れ流していること自体、正気で考えれば恥ずかしいことだと思う。それでもまた新たに恥ずかしいことをしてしまったり、懲りもせずこんな文章を書き連ねていることを思うに、もうこれは恥ずかしさに対する感覚が麻痺しているというよりも確信犯で恥ずかしいことをあえてやっているとしか思えない。

そんな一方で、面と向かって人と話すのは相変わらず苦手だ。1対1だったり、こちらが1人で向こうが複数人という場合にはまだ普通に話せるのだが、こちら側が複数人になったり、不特定多数の人がいるパーティーなどの場所ではうまくふるまうことができず、どうにも仲を深めることができない。早くこの場が終わらないかなと思ってしまう。飲み会にしても少人数で気心の知れた仲であればそれなりに話せるのだが、知り合いではあるけれど日頃あまり会わないような人とはうまく話せない。さらに言えば、歳の離れた人とは比較的話せるのだが、年齢差が5歳以内になるとどうもなにかを意識してしまうのか話せなくなる。

他には、公衆トイレで小用を足す時にも、できるだけ個室に入りたくなる。そうでなければ、小便器の1番奥か奥から2番目を使いたがる。極めてプライベートな作業である排泄の場は、できるだけ他者とかかわることなく過ごしたい、という願望がある。しかしながら満員電車が苦手というわけではない。前後左右で他人の身体と密着しており、完全に自分のスペースが侵されているわけではあるが、時にはその密着感が心地よかったりもする。狭いところが好きなことに通じるところがあるようだ。ただ満員電車で周りにいる人はあくまで完全なる他人であるから密着しても気にならないわけであって、これが1番苦手な同年代で多少知り合いの人たちに囲まれている状況下であるならば、非常に辛くなるのかもしれない。

我ながら自分をさらけ出して恥ずかしいと感じる場所や相手の属性に偏りがあることを感じる。この偏りは多分人によって大きく違うのだろう。これも一種のパーソナルスペースなのだと思う。