「正しい」ことの危うさ。

この場所にブログを移して、1番伝えたいと思っているメッセージがあるとすれば表題のことなのだと思う。その時々で題材は変われど、僕は繰り返し繰り返しこのことを述べているように思う。

「正しい結婚」なんてあるはずがない。正しい結婚があると思いこんでいるような人は、いつまでたっても結婚なんてできないだろうし、なにかの弾みで結婚できたとしても、自分が思う「正しい結婚」を相手に強要する限りは、その結末は悲惨なものとなるだろう。

「正しい進路」なんてあるはずがない。ただ進む道を選んだだけで成功が約束されるなどということはあり得ない。そんなことに囚われている限り、たとえ表面的には成功したとしても人生はひどく渇いたものになるだろう。ましてや、親や家が子どもに「正しい進路」はこれだと示すことなどは愚の骨頂である。

「正しい歴史認識」なんてあるはずがない。勝手に国家がそれを決めつけて国民を洗脳させるなんて愚かなことが、中国や韓国だけでなく日本でも行われ始めようとしているのは恐ろしい。大切なのは正しいとされたことを盲信することではなくて、自分で考えてみることであり、現実をどう動かしていくか(先送りや妥協も含めて)ということなのではないか。

「正しい宗教」なんてあるはずがない。布教活動はともすれば、自分の正しさを他人に押し付ける活動であり、安易に行われるべきものではない。自分は自分、人は人、その考えをむやみに乗り越えてはならない。宗教に限らず、自分の考えを「正しい」ものとして人に強要すること自体が罪深きものだと思う。

「正しい生き方」なんてあるはずがない。正しい生き方が示されるのは、今や地球上からほとんど消滅した社会主義国家くらいなものだ。それでも日本を含めいろんな国でその考えは亡霊のように残っていて、少なくない人の人生を縛っているように見える。正しい生き方なんて掲げてしまえば、それをまっとうできない自分を認められなくなるだけだ。そこには苦しみか、苦しみを避けるかしかない。正しい生き方の外側に、楽しい生き方や面白い生き方があるのだと思う。もちろん、自分がこれと決めつけた正しさを不偏不党のものとして他人を裁くことは愚かなことである。

たぶんこれは僕の人生のテーマのひとつなのだと思う。テーマとなるに至るきっかけとなるできごとは、振り返ってみればいくつかある。それは相手のあることでもあるしここでは書かないけれども、これからも飽きもせずこんなことを垂れ流していくのだろう。