震災のあとに。

月曜に出社してそのまま泊まりの出張に出ることになったので、着の身着のままで過ごす。とは言ってもワイシャツや下着はユニクロですぐに調達できるので便利だ。iPhoneの予備バッテリーがないのは少々痛いが。

温暖な瀬戸内においても、すっかり紅葉が進んでいる。山ぜんたいがパッチワークのように色を並べている。紅葉の原理を今年初めて知って感嘆した。葉っぱが散りぎわに美しくなるように、将棋の駒も取られてしまう前に最も働きを増す。遠い昔は人間もまたそうだっただろうか。

★★★

東日本大震災から1000日が過ぎたことを機に、あの頃のブログ記事を読み返してみた。3月中は全てが震災絡みの内容だった。今残っている記憶では、自分自身はずっと冷静にふるまっていたはずなのだが、文章からは興奮ぶりが伝わってくる。

僕は直接の被害はなんら受けていないし、むしろ恵まれている立場だったのだが、あの頃はやたらと目の前で人の本性を見せつけられていて、それに辟易としていた。極限状態に近くなると良くも悪くも人の本性がよくわかる。それに心の中で過剰反応し過ぎているきらいがあった。そんな感じで悶々と過ごしていたが、やがてその気持ちは消えて、人は人、自分は自分、自分は自分のことを淡々とやるだけ、と考えるようになった。これが震災を機に自分のなかで一番変化のあったことだ。これは人それぞれの価値観や、それに基づく言動について尊重すべきだ、という考え方ともつながっているし、人は完全にわかりあえることはない、という諦観にも通じる。よって、人に自分の価値観を伝える時には、相手がもともと持っている価値観を尊重し傷付けないように注意を払うことが礼儀だと思うようになった。

仕事の進め方も、人に頼らず自己完結するようになったのは震災がきっかけである。人の話を鵜呑みにして成功するよりも、たとえ失敗したとしても自分で判断したことに正直に生きようと思うようになった。心身さえ健康であればなんとでも生きていけると思えるようにもなったし、だからこそ心身を壊さないことを最優先に生きようと思うようになった。

そして、震災の後にも何度か東北を訪れることができた。自分なりの想いをこめて、いくつかの街を歩き、光景を目に焼き付けることができた。震災は災厄ではあったが、振り返ってみれば自分をじわじわと変化させたイベントだったなと思う。まだ行けていないところにも、必ずや足を運んでいろいろと感じてみたい。