熱帯夜、生まれ育った町で。

映画の制作を仕事にしている友人と話していた。「映画を通じて観る人になにを伝えたいの?」という質問をした。実は8年前にも同じ質問を彼にぶつけていて、この年月の間に答えがどう変わるだろうか、と楽しみにしていた。答えは変わらなかった。とともに、それが野暮な質問だったことに、8年経って自分自身で気が付いた。受け手に伝えたいメッセージを込めて作品を作るのは、作り手の独りよがりな要望なのだろう。受け手が自由にメッセージを感じ取ればいいのだ。それは映像作品でも文章でも同じことなのだろう。

続けて彼はこう言った。「なにを伝えたいかはさておき、主人公が恨みを持つ相手に対して復讐するストーリーで映画を作りたい」と。なるほど、これが言わば伝えたいこと、メッセージに代わるものなのだ、と自分で勝手に納得した。ストーリーとしての枠は一つでも、受け手が得る印象はそれぞれの持つバックグラウンドによって変わる。

「さっきのストーリー展開を聞いて、僕自身誰かに復讐したいと思うような相手がいるかな、と思って探してみたけど、思いあたらないや」と僕は言った。これまでの人生のなかで時々、自分がなにかされたことに対して仕返ししたい、と思ったことはないわけではないけれども、そういう感情は意外と短期間で消えてしまうものだ。なかには実際に仕返ししたこともあるけれど、それは復讐という大それたものというよりは、自分のうっぷんを満たすためだけに行われたちっぽけな行動でしかない(しかしながらそれがもしかしたら相手に多大な影響を与えたこともあるのかもしれないが)。自分が誰かからひどいことをされても、そういう行動を取った相手自身も後悔の念にさいなまれたり、そういう行動を取らざるを得ないほど、追い込まれていたのであり、あえて仕返しをしなくとも、相手は既に自らの行動に対する罰というか、因果を受けているのだ、と思うようになった。

すると彼も、「そう、俺も実際に誰かに復讐したいと思うような原体験はないんだけどね」。と言った。もしかしたら本当はあるのかもしれないが、それはわからない。そして復讐をしたから、自分の気持ちがスッキリするのか、それもわからない。復讐しなければ解消することのない恨みが、世の中にはあるのかもしれない。そういった恨みを、僕はまだ経験していない。

「久しぶりに、◯◯が作った映画を見てみたいわ」と僕は言った。