下川裕治という生き方。

10年前、バックパッカーのバイブルと言えば『深夜特急』だったが、僕は下川裕治の本もよく読んでいた。新聞記者を経てフリーになり、バブルの絶頂の頃に「12万円で世界を歩く」という時代の空気とは逆を行く週刊誌の企画でトラベルライターとしてデビューする。それから25年以上、旅のスタイルも文体もほとんど変わらず連載の原稿を書き、文庫本を出してきた。そして来年で60歳になる。

氏の旅のスタンスは観光でもないし、現地の人と触れ合うことでもない。ましてや、「子どもたちの笑顔が素敵!」や「旅で自分が変わりました!」などといったスタンスとは対極に位置する。しかしながら性風俗に入り浸るわけでもない。強いて言えば、東京に居心地の悪さを感じて、ふらふらと飛行機に乗っていた、という表現が当てはまるか。

最近になってまた、世界一周をする学生が増えているらしい。世界一周をしながら、各地に根を張って活躍する日本人に会って話を聞くことが流行っているのだとか。それを意識が高いなどと揶揄するつもりは別にないが、あまりにも前向き一辺倒だったり、自分を盛っていくようなスタンスに、僕はどうしてもうさんくささや危うさを感じてしまうのである。

氏の文章は基本的に淡々と書かれている。時折、ハプニングに接して唖然とすることはあれど、旅を楽しんでいる描写はあまりないし、読んでいて面白いと感じることもあまりない。旅が終わる際にも、名残惜しいというよりは過酷な移動を乗り越えてほっとしている、という言葉で締めくくられている。文章に挿入される写真のなかで氏が写っているシーンは、美味くもないメシを食っているものか、寝台車にだらんと寝ころびながら水を飲んでいるものが多い。流れに身をまかせて、だらだら旅をしている。いやもっとはっきり言うと、氏はだらだらと人生を生きてきたのだ。

やたらと海外に出よ、アジアに出よということが叫ばれるようになった。そういった言葉はしばしば、日本を出て戦え、という文脈で使われる。しかしながら一方で、流れるままに還暦近くまで歳を重ねてきた氏のような人もいるのだ。そして氏の書く文章にほっとさせられたり、共感したり、ほのかな希望を抱くような人がいるからこそ、氏はトラベルライターとして生き永らえている。

肩肘張って生きている人があまりにも多いように感じる。無責任すぎるのも良くはないが、大半の人はもっと流れるままに生きてもいいんじゃないかな、と思ったりもする。