人間という生物。

夜の電車。窓の外の暗闇を見つめるときまって、何のために生きるのか、という使い古された問いがぐるぐる頭のなかを回る。大人になればそのうち答えがわかるようになるはずさ、と思っていたけれど、いっこうに答えが出ない。

20世紀の半ばまでは、よく未来予測が行われていたように思う。映画などの娯楽作品においても、未来の世界が描かれている場合には、それはたいていは好意的に描かれたものであった。21世紀はテクノロジーの発展が進んだ、薔薇色の世界だと。未来はきっと今よりも良くなると信じられていた。そんな描かれ方が減ってきたのはいつの頃からだったのだろうか。テクノロジーの発展が必ずしも幸せにするわけではない、と人々は気付いたのだろうか。

シムシティcivilizationといった、都市や国家を経営していくシミュレーションゲームを、際限なくやりこんでいくと、最後には核戦争や原子力発電所からの放射能漏れや、環境破壊によって汚染された世界ができあがるという。現時点で想像できる世界の延長線上には、そんな未来しか描けないのだろうか。そうでない未来を創り出せるのが人間が人間たるゆえんだと信じたいが、もしかすると人間は何でも自分たちでコントロールできるという勘違いを犯しているのかもしれない。

そもそも人間は生まれながらに、地球や地球に暮らす他の動植物に負担をかけながら生きている。いくら人間の社会のなかで良く生きようと思っても、どこかの誰かに迷惑をかけながら生きることは避けられない。そのことを承知のうえで生きるしかない。

それでも人間は、ところどころで過ちを犯しながらも、徐々にそこから学んで、自滅への道を回避することができるのだろうか。最終的に自滅の道を回避できたとして、それまでにどれほどの悲惨な体験をするだろうか。もしかすると、自滅寸前の思いをするところまで行かなければならないのだろうか。

昔がどうだったかはさておき、これから数世代にわたって地球に生きる人間たちは、自分たちの絶滅を回避するような判断ができるか、という共通命題を抱えているのだと思う。協調して課題解決のための努力をすることもその手段だろうし、あるがままに問題を放置して、ある種自然に人類の一部が淘汰されるのを指をくわえて見ているだけに終わるのかもしれない。それもまた人間らしい、と言える。

人間とは何だったのか、あと数世代で結論の出るような命題ではないけれど、この命題について身をもって向き合う時代が、20世紀から始まり、少なくとも何百年かは続くのだなぁと思う。