社会と会社。

弘前では普通のドレスシューズで雪道を歩き回ったために大層疲れがたまった。少し雪が薄いところを歩こうとするとたちまちに靴が滑る。地元の人たちは当然長靴を履いているか、そもそも車以外で移動することはない。どうせ転んでも痛くないのだが、転んでしまうと精神的ダメージがでかい、かといって滑ったときに踏ん張ってバランスをとると身体の変なところに負荷がかかって疲労が増幅する。

辺りの家を見ると、雪かきが終わっている家もあれば、数十センチの厚みの雪がそのまま乗っかったままの家もある。平たんな歩道ですら滑りそうになるわけだから、傾斜のついた屋根の上で雪かきをするというのはなんと重労働なことだろう。住人が歳を取れば雪かきは難しくなる。雪国で暮らすことの苦労はいかばかりだろうか。

所変わって、普段暮らす川崎市内の話。
朝、最寄りの駅に向かうまでの道すがらにはいくつかの小学校があり、通学路にはきまって黄色や緑の旗を持った大人が子どもたちを守っている。僕と同じくらいの歳の頃のママもいれば、既にリタイアしたであろうお年寄りもいる。大きな声でおはようと挨拶しながら笛を鳴らして、長い棒つきの旗で通学路の見守りを行うおばさんはどんな天気の日にも決まった交差点で見かける。

今年は川崎にも何度か雪が降った。雪が降ると通学路の子どもたちはいつもにもまして遊びながら学校に向かうので、もはや前を向いて歩いていない。後ろを向いて雪玉を投げながらはしゃいでいる。通学路のみならず車道を横切る時ですらそんな調子なので、やはり大人が見ておいてあげなければならないのだろう。かくいう僕自身もこの歳にしてまだまだ注意散漫、歩く時もふらついているので子どもになにかを言えた立場でもないのだが。

そして駅に着くと、黒いコートを身にまとった集団がホームに並んでいる。日本人は本当に生真面目で、雪の日はみな普段よりも早く家を出ようとするのだ。交通網が乱れるなかでも会社に迷惑をかけまいと早起きして満員電車での通勤を耐えること、それ自体は勤勉な証しである(けして称賛されるべきこととは思わないが)。しかし、彼らはある意味では楽な稼業だ。会社に行きさえすれば何がしかの賃金が支給される。極論を言えば会社以外の社会に自分のリソースをつぎ込む義務を課せられていない。賃金から税金を払うことでその義務を免除されていると考えることはできるのだろうか。何がなんでも会社に向かうことよりも、社会に対して果たすべきこと(それは例えば雪かきであり、子どもの見守り)があるのかもしれない。これからの社会と会社はそんな視点を意識しながらデザインされるようになっていくのだろう、と思った。