鈍感力。

福島まで日帰り。福島駅に降り立つ頃には小雨が降り出して、駅前の寒暖計は17度を差していた。暑さに慣れた身体が、寒さに適応しようと感覚を切り替えている動きを感じる。一方で、去年のように緊張感を持ちながら福島駅に降り立つことがなくなったことに気付く。所詮ほんの一面しか触れていないが、街の雰囲気も心なしか緩んでいるように見える。去年のことがなかったことであるかのように、日々がまわっているようだ。

もちろん本当はなにも終わっていないし、苦しみが消えたわけでもない(故意に隠されていたり見えないものもある)のだと思う。それでも、時間の経過とともに相当の苦しみや悲しみが消化されてきたのだと思う。これは人間の自然治癒能力なのか、現状への適応能力なのか。

適応能力のひとつとして鈍感力があるのだと思う。去年の大震災のあと、誰もが多かれ少なかれ鈍感にならざるを得なかったはずだ。少なくとも僕は、目の前で起こったことを真正面から受け止めていては精神が持たなかった。鈍感であることで、身体的により危険な目に遭う可能性は高くなるのだろうが、鈍感でないことで、精神的に危険になる可能性のほうがより高いのではないかと考えていた(しかしながら、無理して鈍感であり続けることもまた精神に負担を強いるものであり、あくまで緊急措置的なものでしかないとも思う)。鈍感と敏感の両天秤については個人差があり、個人差があることとが分かり合えなかったり、個々が属する社会や空間が持つ(あるいは無意識ないし意識的に強制する)価値観と、個々の価値観のずれによって苦しむような場面が増えた。そしてそのずれは解消されるどころかますます拡がっているように感じる。暑さ寒さには適応できたり、人の痛みには鈍感になれても、自分と他者の価値観のずれに対して長期的に鈍感であり続けることは難しい。

車窓に、明らかに新幹線の乗客に向けて掲げられた「東北復興ひとつになろう」の看板を見つける。僕は誰かが作った価値観に自分を合わせてひとつになるのはまっぴらごめんだと思う。自分が他者の心のなかにある絶望を分かってあげられないし、他者が自分の心のなかにある絶望を理解してくれることもあり得ないのだ。そのことを大前提として共有しなければ、掲げられた言葉は実を伴わないどころか、新たに人を苦しめるものにもなり得る。身も蓋もないが、自分は自分でやるしかないのだ。

でも、「誰か」の存在がなければ進むことができないのもまた事実でもある。