魚と通知表と努力。

きのう日曜日は、三浦半島に旅行に行った。相変わらず空気は冷えていたけれど、少し南国らしい陽射しが差して、歩くと暖かくなって心もほぐれてくる。海の色が想像以上に綺麗で、水中を泳ぐ魚もたくさん見ることができた。船の上から餌付けをしたら、魚が飛びつくように集まってくる。飛び込んでくる魚の身体が太陽にあたって眩しく光る。

★★★

年末に実家で探し物をしているときに、ふと中学校時代の通知表が出てきたので、探し物の手を止めて読みふけった。真面目に勉強したりしなかったりの差が激しい時期だったので、成績もジェットコースターを繰り返している内容だった。成績自体もさることながら、担当教科の先生の短いコメントを読み返していると、それぞれの先生の顔が浮かんできた。読み返してみると意外にも、単にそれぞれの教科で成果が良いか悪いかということよりも、意欲的に勉強(運動や創作)に取り組んでいるか、を基準に成績が付けられていることに気付いた。テストの点数が良くても真ん中以下の評価が付いていたこともあるし、運動神経が悪くて苦手だった体育でも、努力がものをいうマラソンの時期だけは良い評価が付いていた。

学生時代の大半の取り組みは、結果よりもそこに至るまでの努力や取り組みへの姿勢をもとに評価されることが多い。絶対的な結果が多少伴わなくとも、努力の結果相対的に高い伸びを示していれば評価されやすいし、努力を積み重ねさえすれば、そのうちに結果が出てくることが多い。

難しいことに、いつからか、努力を積み重ねること≠評価されることでなくなってくる。努力だけではお給料はもらえないし、努力だけで事業を興せるわけでもない。辛い練習を積み重ねたことは、きっと何かの役に立つ、とも限らない(あえてそう言い切る)。努力を積み重ねた先に得られるものがあるのは間違いないだろうけれど。

目標に向けて精一杯努力を積み重ねていても、アクシデントは突然やってくる。アクシデントを恨むことはできない。苦しい状況に追い込まれたとしても、常に自分を客観的に捉え直すしかないし、最後は開き直ってスタートラインに立つしかない。不意に起こるアクシデントに対して、人間が対抗できる術は、全てを受け入れて淡々とできることを尽くすのみだ。

(いささか逆説的だが、)であるからこそ、学生時代には結果よりもそれに向かう過程を充実させることに重きを置いた教育がなされるのかもしれないな、と思った。