損得かんじょう。

今年の夏ごろ、どうして自分は頑張っているのに周りがいまいち乗っかってきてくれないのだろう。響くようなレスポンスをくれないのだろう、と思い込んで、浮かない気持ちになることが幾度かあった。その時、とある和尚さんから「交換」の話を聞いて胸がいくぶんすっきりすることがあった。

普段はなかなか見えづらいのだが、この世の中は「交換」でできている。僕らは会社に労働力を提供することと引き換えに給与を得るし、お店では金銭を提供することと引き換えに食事やサービスを得る。これはなにも金銭に限ったことだけではなくて、人になにかをしてあげて、例え金銭的な報酬が得られなかったとしても、自分自身の満足感などといった類の報酬を得ること、すなわちボランティアも「交換」の一種と言えると思う。

人間関係も全て「交換」でできていると思う。なぜ友達と一緒にいたいかと言えば、それが自分に楽しさや気付きをもたらしてくれるからだと思う。損得勘定とごっちゃになりやすいが、損得勘定は「交換」の一種であって、いやらしいものではないと思う。人と付き合ったり、結婚することは「交換」の最たるものだと思う。自分に足りないものを相手に求めたり、相手に自分のもっているものを与えたりすることを意識することは、けして計算高くなることではなく、相手とのコミュニケーションをより深めるものだと僕は考えている。特に、自分がなにを与えられているだろうかと、極力主観を取り除いて考えてみることで、自分の日々の行動が変わると思うし、相手にもらっているものを改めて考えてみると、少しは感謝の気持ちも湧いてくる。

できれば自分に少しでも特になるような「交換」を重ねていきたいとついつい思ってしまうのだが、なかなかそういうわけにもいかないように世の中はできている。ある一面で満たされたことで、自分では有利な「交換」に持ち込んだように思い込んでいても、別の一面で失ったものがあったり、不思議なことにどこかで帳尻が合うようになっている。そして、人それぞれの幸福感は、自分の望む要素が満たされているかどうか、失ってもいいと思える要素をいかに潔く諦めているか、の2点によって形づくられているように思われる。

僕は精神的に弱いので、いつも「これをやったら見返りが得られるか」なんてことをついつい考えてしまう。いったんそういう思考にはまりこむとなかなか抜けられなくなって、気持ちが沈み込む。いつもいつも「交換」の考え方に立ち返るのは難しい。