課長の君と平社員の僕。

銀行時代の友人2人と飲む機会があった。その銀行はもともとメガバンクのなかでは若手をどんどん抜擢させることでは他行よりも抜きん出ていたのだが、近年その傾向がさらに強まり、なおかつ僕らより上の30歳〜40歳前後の世代の行員が非常に少ない、という年齢構成のため、彼らは早くも管理職としてのポジションに就いている。数人の部下を取りまとめ、自身も当然プレイングマネジャーとして数字を求められる責任は相当のものだと思う(残念ながら給与に関しては管理職としては相当に少なく、以前の高給取りのイメージはもはやない)。一年一年の密度は僕よりも濃いように思える。

1人は新入行員の頃からリーダーシップがあって、いつも自分のことより周りのことに気を配ることができ、配属当初はかなり辛い環境にありながらも笑顔で頑張ることができるような奴だったので、大変そうながらも楽しみつつマネジメントに取り組んでいる。少し驚いたのはもう1人の方で、彼は新入行員の頃は自分の置かれた環境に愚痴ばかり言っていた記憶があったのだが、そこから転じて自分がアクションを起こして周りを動かしていかなければならない、といった意味のような発言を何度か聞いて、あぁ変わったなぁ、と僕はびっくりした。

愚痴にもいくつかの種類があると思う。自分に降りかかる利害に対して傍観者的に発する愚痴、組織をより良くしたいと考えたうえでの他者の姿勢に対する愚痴、その他様々な愚痴がある。最後に自分が責任を持って主体的に動かなければなにも変わらないとの境地に立ったときに、人は愚痴を言うことを止めるのかもしれない。そしてそれは、社会人としてのひとつの到達点でもあり、本当の社会人としてのスタートなんだと思う。仕事でなくとも、社会の中でなにかを為すことにおいて、この地点にたどり着けるかというのは重要だと僕は考えている。

そして、この能力は人によっては既に社会人になる前に獲得していることもある。組織を引っ張った経験がある人に身に付いていることが多いが、自分一人で大きなものごとに取り組み続けた人にも、この能力が備わっている人は多い。周りに対して、自分に対してリーダーシップを持っている人は仕事に限らず、なにかを為し遂げる場所に近い。その能力こそが生きていくのに一番必要なことなのだとしたら、子どもが社会人になるための教育とはなんなのだろうか、と思ったりする。教育されることで余計に削り取られてしまうものもあると思う。