逃げた記憶。

とある参議院議員のブログで、4月から働きはじめた新人秘書が連絡なしで姿を消したというくだりを読んだ。逃げられた議員もあぜんとするばかりであろうし、その新人を紹介した議員も面子をつぶされたという他ない。

とはいえ、逃げた彼が悪いと100%断罪するような気持ちにもなれない。彼の行動自体は無責任極まりないが、きっとそれなりの理由があったのだと思う。政治家の秘書という仕事は生易しいものではないし、ましてやバリバリの参議院議員の秘書ともなれば激務であろう。秘書となるにあたって仕事内容に対する想像力がかけていたとか、覚悟が足りなかっただとか、彼をいろいろと批判することは簡単だが、単にそれで片付けてしまうのは違う。

僕には「逃げた」経験も「逃げられた」経験もある。だから、この件にはなんとも割り切れない複雑さを覚えてしまう。強者の視点だけで断罪してしまうのはなんとも気持ち悪い。努力を継続しストレスに耐え切ることができる力が誰にも備わっているわけではない。過度の負荷が人を壊してしまうことはそう珍しいことではないのだ。成功者はたまたまその壁を乗り越える才能、努力を続ける才能に恵まれただけであって、そのような才能は誰にも備わっているわけではないことを理解すべきである。壊れる前に逃げてしまうことは、それはそれで立派な生き残りのための選択なのだ。

それでもたったひとつ「逃げた」彼らに言うことがあるとすれば、逃げた記憶にちゃんと向き合ってほしいということだ。自分が逃げたことで、周りの人の面子をつぶしたということ、周りの人の好意を無為にしてしまったこと、それらに向き合って、自分のなかでその記憶をちゃんと消化してほしい。逃げた記憶からさえも逃げてしまうことは、何よりも自分のためにならない。記憶から逃げることはできない、よしんば自分では忘れたつもりであっても記憶はどこまでもつきまとってくる。向き合って消化しないことには、いつまでも自分の心の重しになる。

僕の「逃げた」記憶もまた、10年経っても15年経っても重くつきまとってくる。逃げてしまったことはしょうがない。その後でもっと誠実にふるまうことができなかっただろうか、コソコソせずにふるまうことができなかっただろうかと今でも思う。いつになったらこの気持ちは消化してなくなるだろうか。逃げた記憶と向き合えていないのだと思う。「逃げられる」のも辛いけど、「逃げる」のも辛くダメージの残ることだ。