オリンピアン。

フィギュアスケート男子フリープログラムは、金曜から土曜にかけての未明だったこともあり3時に目覚ましをかけて見届けた。男子以上に注目が集まった女子も見たい気持ちはあったのだが、先週は前半から予想以上に疲れていたこと、ショートが木曜未明、フリーが金曜未明の時間帯となることから、睡眠を取ることを優先しようと思っていた。

木曜の朝目が覚めて、Twitterのタイムラインを眠りに落ちる直前から読んでいく。浅田真央は最終滑走。ちきりんさんが「真央ちゃん、滑り始める前から顔が暗い。。」とつぶやいているのに心がざわついた。そして間髪入れず流れてきた得点と順位に、神様はなんと残酷な運命を与えるのかと思った。

木曜日、慌ただしい昼間のスケジュールをこなしながら、やはり今夜は浅田真央が滑る4分間だけでも起き出してこの目で見るべきではないのか、という気持ちが徐々に大きくなってきた。もちろんこれが最後になるかもしれない彼女の滑りを目に焼き付けておきたい、ということもあったし、予期しない結果となってからわずか21時間で、彼女がどのような滑りを披露するのだろうか、という興味が湧いてきた。あるいは虫の知らせだったのかもしれない。森喜朗が彼女に関する不用意な発言をした、というのもなにかが起こるフラグのように思えて仕方なかった。

18時間後、浅田真央はフリープログラムを滑走した。ピアノ協奏曲第2番の旋律と、解説の八木沼純子さんが段々とジャンプの種類を告げていくなかで、彼女はメダルでもない、誰かの期待でもないなにかを掴みにいくために氷上を軽やかに舞っていた。その滑りは、彼女自身もインタビューで答えていたように、ショートの結果が16位に終わったからこそできた滑りだったのだろう。8つ目のジャンプを成功させた後に両腕をぐっと下から突き上げた姿に、この先引退したとしても、私は私であり強く生きていく、というメッセージを感じ、プログラムを終えて天を仰いだそばから流れ落ちた涙に、オリンピックは勝負を超えたところで感動を作り出すこともできるのだ、ということを改めて強く感じさせられた。

周囲からの期待という名の測りしれないプレッシャー、キムヨナとのライバル関係とそれに伴う過熱する取材、それらを全部昇華させて、フィギュアスケーターとしての高みに到達した。そうして、諸々の雑音を矮小化させて包みこみ、代わりに言葉も出ないような感動を届けた。これがオリンピックの力、オリンピアンの力なのだ。