相対的信頼性。

特定秘密保護法案が衆議院を通過した。いわゆる「尖閣ビデオ事件」が発端となったことを思えば、国家として機密情報の取扱いに一定のルールを設ける、という動き自体にはうなづけるものの、やはり都合の悪い事実が表に出ないようにコントロールされてしまうのではないか、という懸念もある。充分に時間をかけて討議したと言うが、最後は強行採決に持ち込んだ、という印象は拭えない。今年の国会で成立させる必要があったのか、と個人的に思う。

しかしそれ以上にがっかりしたのは、この法案に対する反対運動である。声高に反対を叫んでいる面々は大体反原発オスプレイ反対を叫んでいる面々とほぼ同じであるし、論調も変わらない。あげくの果てに法案が可決されれば、この国は終わりだと投げやりな言葉を吐く。この人たちはあくまで反対することに意義があって、自分たちの主張を実現させることに興味はないのだろうか。これは伝統芸能のような茶番であって、本当はシャンシャンと法案が可決してもいいと思っているのではないだろうか。もしそうではなくて、本気で反対を叫んでいるのならば、何百年経とうが社会のコンセンサスを得られることはないだろうと断言する。反原発運動の時と何ら変わらない。

世の中で進められていることに反対しようと考えているのであれば、まずは自分自身が信頼される存在と見てもらえるように振舞わなければならない。やみくもに相手の揚げ足取りや皮肉った言動ばかりしていたり、目を引きたいがためにパフォーマンスに走るなどということは止めたほうがいい。その意味で、菅直人山本太郎が反原発運動の旗手として担がれているのは、反原発を願う人たちにとっては悲劇以外の何物でもない。

フィリピンの台風被害に際して、自衛隊が救援活動で活躍していることが報じられているが、それに比べると、オスプレイがその能力を生かして活躍していることは報じられていない。オスプレイに反対していた人たちは、この事実に対してどう考えているだろうか。自分たちの都合の良いようにしか物事を捉えないようでは、どれだけデモで声を枯らしても、周りの人の心に響くことはないだろう。

原発、反オスプレイ、反秘密保護法案を掲げる人たちの行動のピントがずれていることが、今の自民党政権を調子づかせていることは間違いない。今の政権が進めていることについては総論では賛成だが、各論で考えると正直ちょっと怖いな、と思うところもある。しかしながら、相対的な信頼度で考えると、メディアや活動家よりは、今の政権のことを信頼したほうがまだマシなのだ、と思わざるを得ない。