渡辺竜王のその次。

長く続いた時間が終わりを迎えるその時は、いつも静かなものである。竜王戦第5局も終わりを迎えようとした11月29日の夕刻は、そんな静謐な空気感に満ちていた。対局者も見守る面々も勝負が決したことを悟ったその時に、渡辺明二冠は静かに手洗いに席を立った。

今回の竜王戦は、挑戦者である森内俊之名人の入念な準備に裏打ちされた作戦がこれでもかと盤上で披露されたシリーズとなった。第1局から第3局までは3たび『後手5三銀右阿久津流急戦矢倉』の戦型へ、これは渡辺二冠の得意戦法であった。第1局で先手番を獲得した森内名人はこの戦型に誘い込み、見事に勝利に持ち込むと、第2局では後手番を持って同じ戦型に持ち込み、完膚なきまでに打ち破った。渡辺二冠に対して、お前の得意戦法は先手でも後手でも見切っている、という印象を与え、早くも大きなアドバンテージに立った。第3局も同じ展開に持ち込み、惜しくも敗れたものの、逆に言えば窮地に立たされた渡辺二冠の手の内を引っ張り出したとも言える。

第4局からは同じ矢倉戦法でも『矢倉先手4六銀3七桂型』の戦型へ。これは森内名人の十八番であるが、渡辺二冠にとっても勝手知ったる戦法であり、おずおずと負けるわけにはいかない。ここでも渡辺二冠の仕掛けを、森内名人は手の内のなかとばかりに受け切り、危なげなく勝ち切った。そして第5局、同じ戦型に組んだ先手渡辺二冠に対し、森内名人は前局で渡辺二冠が失敗した仕掛けをあえて敢行し、迎え撃つ渡辺二冠の受けを破り4勝1敗で竜王位を奪取したのだ。一局ぶっつけの勝負ではない、7番勝負における効果的な戦い方を熟知し、冷徹なまでにそれを忠実に実行した森内名人の強さがどこまでも際だった、人間どうしの戦いの醍醐味が詰まったシリーズであった。

★★★

渡辺二冠の代名詞と言えば竜王であった。弱冠20歳にして奪取し、9連覇を成し遂げた。しかし10連覇はならず、29歳にしてその位を手放すことになった。5年前、挑戦者の羽生三冠に対して開幕3連敗の後第4局でもぎりぎりのところまで追い込まれてからの逆転、4連勝による防衛を果たしたシリーズが代表的だが、毎年どれだけ強い挑戦者が現れてもはねのけ、秋から初冬と言えばここ数年渡辺二冠の季節と言われるまでになった。大げさに言えば、今年はひとつの時代の終わりと言ってもよい。

渡辺二冠はこの敗戦、しかも得意であるはずの戦型で完全にペースを握られての敗戦からどう立ち直っていくだろうか。年明けからは早速王将戦で羽生三冠を挑戦者として迎えることになる。ひとつの分岐点をしんみりと味わいつつも、渡辺二冠が殻を破って到達するであろう新しい境地に期待したい。