常識と原体験。

知らず知らずのうちに人は自分に都合のいいようにものごとを解釈してしまう、という罠にはまってしまう。山口は周南市の殺人事件の報道を見て思った。山中で逮捕された容疑者はまだなにも語っていない。しかしながら、報道のされ方によって、容疑者がさも英雄であるかのように捉えられたり、奇行を繰り返す要注意人物として扱われたりもしている。

大まかな話としては、容疑者が上京して働き、40歳を過ぎて山口に戻ってきてから近隣とのトラブルに巻き込まれ、恨みを募らせた末に今回の犯行に至った、という流れになる。近隣とのトラブル、というのが、集落内の雑用を一手に任されたり、雑用で使用していた草刈機を燃やされたり、集落内の飲み会で刃傷沙汰を起こしたり、という内容なのだが、報道のされ方によって、あたかも都会から越してきた「よそ者」である容疑者を取り巻く集落の人たちがいじめていた、という文脈で紹介されていることもあるのだ、一方で、容疑者自身の行動自体にも、奇妙なところがあったのだろうし、最終的に近隣住民宅に火をつけて殺人を犯してしまった、という点においては弁解の余地はないのであろう。

僕自身、このニュースを起こった事象だけを伝え聞いた時は、もともと神経質だった人がおかしくなってしまったのだろうなぁ、と思っていた。それが、過疎地の限界集落の閉鎖性、という勝手な思い込みや八つ墓村のイメージに結び付いて、殺された被害者を含めた容疑者を取り巻く集落住民たちも相当に酷い人たちではなかったのだろうか、というストーリーを作ってしまうに至っていた。そうやって一方的に肩入れしてしまうだけの、個人的な原体験があったということなのだろうか。

確かに、集落内の常識が集落外の非常識であった、というような一面もあるのだろう。ただしそれはあの集落に限ったことではなくて、誰しもが自分の属するコミュニティのしきたりや常識に多かれ少なかれ囚われている。そしてそのコミュニティが閉鎖的であればあるほど、よそ者への排他性が強まる。

自分の属するコミュニティで行われていることが、その外で行われていることとずれているからといって矯正する必要はないけれど、ずれていることを認識することは大切なのだと思う。そして自分がもし偏った認識をしているという自覚があれば、その源になった体験がどこにあったのか、たとえたどり着かなくとも考えてみることで、自分に都合のよい解釈をしてしまうことが防げるのだと思う。