悲しみの単位。

雨上がりの長い下り坂で風を受けていると、冷やっこく感じる。夜どおし虫の音が窓の向こうから聞こえてくる。毎年のことだが秋が近付いてくると心がそわそわする。

★★★

記憶にある一番古い悲しみの記憶は、中学一年生の時にいじめっ子に眼鏡を壊された日の夜だ。布団のなかで丸まって声を殺して泣いて、布団の隣のタンスを拳で叩いた。身体が震えるような悲しさだったが、今振り返ってみれば、あぁあんなこともあったなと思い出すくらいの思い出だ。

一番印象に残っている悲しみの記憶は、大学一年生の時にクルマで自損事故(廃車)を起こしたときだ。金銭的な損失のダメージと、とんでもないことをしてしまった焦燥感で、視野が狭くなり、世界がぐにゃりと歪むような感覚に陥った。周りの人の自分に対する視線がとても冷ややかに感じられて、ふと自分が気を抜いてしまえば、どんどん人生を転落してしまうかのような気分になった。幸運なことに周りの人の温かさに力づけられて復活することができた。

淡々とした日常を積み上げていくことで、悲しみは癒されていく。いつからか、僕は悲しみに出会った瞬間に、この悲しみはどのくらいの時間が経てば消えていくものだろうか、と思うようになった。悲しみの大きさを時間で測ることができると考えているということは、僕はまだ本当の悲しみを知らないのかもしれない。しかしながら、例え妻が不意に亡くなったとしても、同じように悲しみの大きさを測ろうとするのかもしれない、と思ったりもする。

僕は悲しみと向き合うことが非常に苦手である。独りで悲しみに浸ることもないし、他者と悲しみを分かち合うこともない。悲しんでいる自分に自分で気付いたり、悲しんでいる自分に気付いた他者がどう思うかを想像したりすると、気が狂いそうになる。悲しい時に他者の前でどんな顔をすればいいのかわからない。残念なことに、人の悲しみを受け取ることも苦手だ。だから、悲しみから目を逸らして、悲しみを受け流してその場をやり過ごす。悲しみを自分でコントロールするために、僕は悲しみの大きさを測ろうとするのだと思う。

29歳の男として、僕は人と比べてどのくらいの悲しみに接してきたのだろう。冒頭に挙げたような、擦り傷のように時間が経てば治っていくような悲しみも、次に挙げたような、光の射さない深い海の底にいるような悲しみも、まだまだ僕は充分に味わっていない、そもそも味わおうと向き合っていないのだと思う。

また今度、悲しみと優しさの関係について書いてみようと思う。