こだわりと不寛容。

こだわりを持つこと、不寛容であることについて考えている。

ものごとにこだわりを持つことはある程度までは自分自身にも周りにも正の効果をもたらすと思うが、ある一線を超えると、自分自身にも周りにも負の効果をもたらすものに転化してしまう、と思っている。

子どもにコンビニ弁当を食べさせたり、冷凍食品で済まさせたりすることに非難の声があがる。外食にしても、どこどこのチェーンで食べる人の気が知れない、と言った言葉を発する人がいる。そういう声をわざわざあげる人は、おそらく育ちがよいのだろう(しかしながら、そういう声をわざわざあげてしまう時点で、ある意味では育ちが悪いとも言える)。

歳を重ねるにつれて、食事に限らず身の回りのさまざまなことに対して、自分なりのこだわりが増える人は多いだろう。人によっては、生まれてきた環境に大きく影響を受けて、幼い頃からこだわりを身に付けさせられる人もいるだろう。そのこだわりを守って生きることが、真に自分自身にとって有益なものか、という命題はとてつもなく難しい。こだわりはしばしば、その人自身の生き方そのものを縛ってしまう。

例えば結婚をとってみても、自由にパートナーを選べない人もこの世の中にはいる。もちろんそのようにこだわりを持つことで、不幸な結婚を防ぐ、という正の効果も働くだろう。しかしながら、こだわりばかりが膨らんでいけば、そもそも結婚する機会すら得られずに一生を終えてしまうことにもなりかねない。

チャールズ・ダーウィンの、『最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である』 という有名な言葉がある。もちろん現代社会において、生き残ること、遺伝子を後世に遺すことが人間としての究極の目標ではなくなっているが、単に子孫を遺すことに限らず、こだわりから自由になることが、ものごとにおいて成果をあげる際には必要不可欠なのではないかと思う。

とはいえ、こだわりを持つことを否定するわけではない。例えば、妥協して結婚するくらいならば、一生独身を貫く、という選択もありえるだろう。しかしながら、この場合も、結婚する、というこだわりを捨てていることにはなる。結局こだわりを固持し、時には他人にも強要してしまうような人は、その分だけ自分自身もこだわりのくびきのなかで苦しむことになるのだろう。全ては自分に返ってくる。そして、全ては自分で受け止めなければならない。