偏差値と再稼動反対デモ。
高速バスで信州に向かっている。薄く雲がかかっているが、太陽の光がこのバスにも届いている。これから中学校時代の修学旅行先である乗鞍に行く。修学旅行文集がガイドブック代わりなのだ。
★★★
昨夜22時前の首相官邸(溜池山王側)はひっそりと沈みかえっていた。
偏差値で20、もしくはIQが40離れていると、話が通じにくくなるそうだ。ずば抜けて頭のいい人には普通の勤め人として社会生活を送っている人が比較的少ない理由はそこにあるのかもしれない。底辺高校に赴任してきた先生は苦労しそうだ。
この考え方は学力という意味での以外にもあてはまるような気がする。恋愛偏差値、寛容力の偏差値、良心の偏差値、金銭感覚の偏差値などなど(そもそも偏差値という概念で捉えることがなじまないのではという議論はここでは置いておく、当然ながら偏差値が高いからいいなんてものでもない)でも、双方の偏差値が違いすぎるとコミュニケーションが取れなくなる。偏差値の隔たりによる違和感が、しばしば会社を辞めたり、カップルが別れる理由になったりする。
現時点で、日本に暮らす人の大半は脱原発を願っているのだと思う。ただ、脱原発に達するまでの考え方にそれぞれ相違があるために、再稼動をめぐっては大半が反対、という状況には至っていないということなのだろう。なにがなんでも今後1機たりとも原発を動かさないことだけが脱原発ではない。当面原子力発電に頼ることで、浮かすことができた燃料費を、より効率的な火力発電施設の増強や、再生エネルギーの開発に集中的に投資することが、脱原発への最短距離かもしれない。人によっては本末転倒と受け取られるのだろうが。
最近の首相官邸周辺でのデモのなかで、急進的な脱原発派による、皮肉の枠を超えた表現を目にして、残念な気持ちになった。今回の再稼動に関する一連の手続きは全くほめられたものではないが、それ以上に僕は、急進的な脱原発派がどんどん先鋭化することで、それ以外の脱原発派の人々の心が冷めていってしまうことが一番危惧すべきことだと考えている。脱原発というゴールは一緒なはずなのだが、言わば脱原発を志向する「偏差値」が違いすぎて、双方が同じ土台で議論をする機会が圧倒的に欠けている。急進派はいつまで経っても内輪だけで盛り上がっているようにしか見えず、輪の外に語る言葉を持たない。だからこそ、これからも何も変わらずに、なし崩し的に再稼動は行われていく。急進派はこのままではなにも社会を変えられない。
本当に脱原発の社会を創っていきたいと願うのなら、まずは急進派を潰していくしかないと思っている。