分断された世界と不寛容な僕ら。

生活保護制度が話題になっている。僕は金融の世界の片隅で敗戦処理のような仕事をしているが、日々接する人たちで、現在生活保護を受けているという人には出会ったことがない。そもそもビジネスを興して借入を行うような人は、例えそのビジネスに失敗して困窮したとしても、生活保護に頼ることなく自分の食い扶持くらいは稼いでいく力があったり、親類縁者の支援を受けて暮らしていくことができる、ということだだろう。また、金銭的には生活保護を受給できるであろう状態にあっても、自らのプライドからあえて生活保護には頼らない、というケースも多いように思う。これがサラ金の仕事になるとまた違うのだろうか。

今まで困窮している人々の姿をいろいろと見てきた、と自分でも思っていたけれど、世界は思った以上に分断されていて、僕は限られた世界しか見ずに(もしかすると目を背けて)生きてきたんだなということを改めて思う。身近に実際に生活保護で暮らす知り合いもいないし、もちろん不正受給をするような人もいない。しかしながら、日本国内には200万人を越える人々が生活保護を受給して暮らしているわけで、なかでも大阪市では15万人近くの受給者がいる。地域によっては街を歩いている人たちが受給者ばかりというところもある。しかしながらそこを歩けば生活保護の何たるかがわかるわけでもないし、最終的には何らかの当事者として入り込まなければ、生活保護についてはわからないだとは思う。

僕も同じように実態を全然知らないので人のことを言える立場でもないけれど、ここ数日の生活保護をめぐる政治家やらWeb上でのさまざまな言動の大半が、生活保護とは無縁な恵まれた立場からの物言いでしかないことに、ため息が出る。彼らの頭のなかで、生活保護受給者の増加を食い止める、という数値上の概念が先走っている。不正はもちろん許されたものではないが、他人に不寛容な姿勢は、いざ自分が困窮に陥ったときに自分の首を絞める。自分が困ったときに周りに助けてもらおうと思うのなら、平常時に普段から率先して周りを助けるべきだ、と思う。

社会のかたちは大きく変わって、誰しも、いざという時に助けてくれる人が周りにいるわけではなくなった。そのような人間は、たっぷりと貯金をしておくか、福祉の力に頼るしかない。にもかかわらず、生活保護制度への締め付けが厳しくなるこの世界は、どこに向かっていくのか。