失敗するのは当たり前。

きのうは、夕方にかけて、少し雨が降り、湿っぽい空気に包まれた。冷たい雨ではなくて、温かい雨だ。身体を包むような癒しの雨だ。西の空から雲が取れはじめ、黄色く鈍く光る日没前の太陽が、秩父や丹沢の稜線のシルエットを浮かび上がらせている。素敵な季節。

★★★

会社を経営するにしても、一担当者として割り振られた仕事に取り組むにしても、成果は常に時の運に左右されるものだと思う。真面目に努力を続けていても交通事故のようなアクシデントに遭うこともあるし、適当にやっていても宝くじに当たるような幸運に恵まれることもある。

お天道様が見ている、という言葉がある。誰も見ていないからといって、仕事の手を抜いたり、ズルをしてはいけないと言われる。成果が時の運に左右されるにもかかわらず、どうしていつも真面目に仕事に取り組む必要があるのか、と考える人もいるだろう。

結局、成果は時の運ではあるのだけれど、運をたぐり寄せるために、日々の細かな取り組みの積み重ねが果たす役割は、思いの外大きい。電話口での微妙な言葉遣いや、靴の履き方や、些末な折衝の記録を残しているかなどといった、本当に小さな箇所でほころびを作ってしまう人は、どこかでやってくるはずの時の運をみすみす自分から遠ざけてしまったり、見逃してしまうことが、現実問題として多いんじゃないかと思う。そして往々にして、そのような人は、自分のふるまいの積み重ねが、知らず知らずのうちに周りに影響を与えていることに無自覚なのだ。なんとももったいない話である。

このような姿勢の差は、運が悪かった時や失敗してしまった時にさらに大きく現れる。誰しも失敗することはある。しかしながら失敗した時のふるまい方に、その人の真価が現れる。人はみな、失敗した時にどうふるまうか、しっかり見ている。周りのせいにせず自分の正すべき点を理解できるか、関係各所に適切に報告できるか、周りに与える影響について想像することができるか、案件が本格的に炎上する前に対処することができるか、失敗から学ぶ姿勢があるか。これらの動作ができない人には、その後重要な仕事はまわってこないだろうし、この対応がおろそかな会社には、再生するチャンスは与えられない(与えられるべきではない)だろう。

ちょっと愚痴っぽいけど、最近思っていたこと。