心ががらんどう。

なんだか、「最近やる気が出ないんだ」といっている人が僕の周りに多いように思います。もちろん、誰にだってやる気が出ない時はあるだろうし、休むことも必要だし、空元気はよくないことだと思います。なおさら今は時勢からも、社会の矛盾や無常や無力感を感じてしまう人が多いのかもしれません。でもそんな言葉を聞くたびに、やる気が出るようになるには心のなかでどういう作用が起こることが必要なんだろう、と考えたりします。


結局のところ、「やる気」と日々その人が取り組んでいる仕事や勉強やその他もろもろ、人生そのものの「やりがい」はリンクしていて、その「やりがい」が本来それぞれが描いていたものと乖離している、というのが「やる気」が削がれている原因のように思います。おそらくそれは取り組んでいるものごとに変化を与える(ex.転職)というような対処療法ではなく、自分の根本にある気持ちを掘り起こしていかなければ解決しないのではないかと思います。

たとえ、その軸がおカネであってもいいのだと思いますが、その場合でも、おカネは手段であって、その向こうにはおカネを通してなにかを為す、という目的があるはずです。おカネを抱きしめて死んでいってもなんにもならないので。


ただ、疑問に思うのは、「人によくみられたい」という願望は「やりがい」につながるのか、ということです。羨ましがられるような地位につきたい、すごいと言われることを成し遂げたい、格好悪いと言われたくない等といった感情が競争原理につながり、社会がよりよくなる力となっていることは否定しようのない事実ではあるものの、それだけでは自分自身の内面を満たすことはできないのではないか、と僕は思ってしまうのです。

「人によくみられたい」と、「人のためによくしてあげたい」ということの線引きは難しいものです。心のありようひとつでどちらにも振れてしまうものだと思います。「地獄への道は善意で鋪装されている」という言葉の通り、「人のためによくしてあげたい」という気持ちがいつも善い行動につながるものとも言えません。


そういう水掛け論を乗り越えてなお、人にはそれぞれ生まれつき神様から、「なすべきこと」が与えられていて、そのなすべきことにたどり着いた(もしかするとみなたどりつく運命になっているのかもしれない)人が、「やりがい」を本当に感じられるのかもしれません。僕たちは結局のところ浅いところでもがいたりもしながら、そこにたどり着こうとしているのではないでしょうか。


きょうは、なんだか宗教のような文章になってしまいました。自分でもよくわからないまま書き出して収拾がつかなくなってしまいました。また考えてみます。