既存の枠組みから軽やかに退場していく人たち。

もしかしたら日本の地方の人は、世界の最先端を行っているのかもしれない、と最近思う。

震災と原発の影響で茨城県の農家から出稼ぎ労働者がいなくなってしまい、農繁期の作業に取り掛かることができずにいる、という話を聞く。また、一部の観光地は既に、中国をはじめとする外国人観光客に売上の大半を依存する格好になっており、やはりここもとは大きな打撃を受けている。一面では東京や大阪よりもはるかにグローバル化が進んでいると言えるのではないか。それも、切実に生き残りをかけてのグローバル化が進んでいると言える。地方はなんだかんだ言ってものんびりやれている、なんて思えたのは今は昔。今は地方のほうにこれからの日本と世界の諸問題を解決する為の知恵が蓄積しているように感じる。その傾向は今回の震災を経て、さらに深まっていくのではないかと思われる。

実際の数値上は、地方と都会の経済格差は拡大し続けている、というか経済的には地方が沈み続けている。公務員と銀行員を除けば、地方で年収300万円を越える収入を得ている人は以前と比べて驚くほど少なくなっている(そして公務員と銀行員の給与も下落傾向にある)。地方の弁護士の方と会う機会も多いが、収入を聞いて内心びっくりすることもある。グローバル化が進むというのはそういうことなのかと思わされる。

ただ、経済的に落ち込んでいるなかで、むしろそうであるからこそ、日本の地方は新しい価値基準を創りだしていく流れに入っているのではないか、とこのごろ思う。なりふり構わず、というわけではないが、まだまだいく分かの余裕がある都会に比べて、地方のほうが新しい考え方を取り込んだり、海外とつながる動きを見せているように思える。経済的観念で言えば都会の稼ぎが地方を養っている構図はまだ変わっていないのだろうが、地方が今直面している高齢化や人口減少、産業の不存在に関する問題をうまく切り抜けていくことができれば、逆に地方こそが都会や他国の手本になるのだろうと思う。もちろん切り抜けられずそのまま沈み込んだままの地方もまた在るのだろうが。

世界の国々はびっくりするくらいの速さで豊かになり、足踏みしている日本に追いつこうとしている。しかしながら、豊かになった後の社会をどうデザインするか、人々が価値観のなかで何に重きを置くのか、というところに関しては未だ世界のほとんどの国は明確な回答を見出せていないのではないだろうか(ブータンや北欧諸国はある程度軸がぶれていない)。僕たちはこれからの数十年でそこにひとつの答えを見出せるだろうか。どうも、既存の価値観を盾に人生を逃げ切ることができるようには思えない。地方で生き生きと暮らしている人に学ぶことは多いのではないか。また、「地方」を「マイノリティ」と言い換えてもいいかもしれない。