妄想と現実のあいだ。

原発問題がなかなか沈静化しなかったり、放射線量がなんだかんだいっても高い状態が続いていたり、さしもの楽観的な僕も少しは注意を払って生活すべきなのかな、と今さらながら考えはじめているこの頃だけど、こういう事態が起こったからこそ、改めて最近の僕はなんのために生きているのだろうか、という根源的な問いにぶちあたっている。あまのじゃくな僕は、放射能を恐い怖いと言う人に、「じゃあなんのためにあなたは長生きしたいの?」という、およそ論理的には破綻している疑問を抱いたりする。もちろん生きる意味を見出さず、(口の悪い言い方をすれば)ただ惰性に生きようとする人に他の人を押しのけてまで生きる意味はない、なんて言ってしまうつもりなんて毛頭ないのだけど、少なくとも僕のどろどろとした心のなかでは、そんな考えが頭をちらついてしまったのは確かだ。それに、極端な話だが、仮に放射能の影響で短い生涯に終わったとしても、周りの人々から温もりや称賛を受けて終える人生であれば、全く悔いはない、満足だと考える人もいるかもしれない。健康で長すぎる人生の晩年を、失意と寂しさのうちに閉じてしまう人もいるのかもしれない。当然どちらが高尚な考えでも、どちらかが正解というものではないし、それが強制されるものであってはいけないのだとも思う。元来人間は自分自身で死を選ぶことすら自由に許されているはず。

なので、僕はたとえ福島産の野菜が売られていても、むやみにそれだけで忌避することはしない(もっとも全面的に買い手の信頼に委ねられている今の状況はいささかよろしくなく、値札の隣に正当な検査に基づく放射線量が表示されているくらいの気は利かせてほしいが)し、福島産野菜のフェアが行われているから率先して食べよう、買おうなんて心も持ち合わせていない。残念ながら。野菜の話ひとつとっても、僕から見るとなんだか世間の人や政府の行動は二極化していて、どちら側の人も、自分の採っている行動が正しいと思い込んでいるように思える。そして、自分の考えや立ち位置にそぐうようなデータや事象だけをクローズアップしては騒いでいるように見える。

人生も人間もそんなに合理的ではないということ、そのなかでじゃあ僕自身はどう生きるのかということ、まだまだしばらくは考えることになりそうです。