いじめと喧嘩。

はるかぜちゃん(@harukazechan)という小学生の子が語る、現代の小学校におけるいじめの実際についてのツィートをみて、こりゃあすげえと思った。以下いくつか抜粋。

「今だからいうけど、いじめが起きないようにむりやり仲良くさせられても、見えないいじめはありました(ω)目を合わせないとか、スッとよけるとか、目があったらクスッて笑うとかいう感じの(ω)口では仲良く話してたり、いっしょに遊んでるから先生にはわからないだろうけど(ω)」
「誰もわかりやすくいじめないから、何にも起こらないから、何にもないことになってた(ω)」
「いまのいじめは、やられた方にしかわからないくらいのことしかやられないから、やられた子が誰かに話したとしても気のせいとか、気にしすぎとかゆわれちゃうと思うから、やられた子も誰にも言えません(ω)」
「会社でミスをなくそう(ω)学校でいじめをなくそう(ω)そんなことは、みんな言われなくてもわかってる(ω)でも、そう言われると、今度はみんな、じぶんのミスやいじめをかくしだすから、よけい悪くなる(ω)ミスもいじめもないほうがいい(ω)でも、もし、失敗してしまったり、誰かをいやだなあと思ってしまうことがあったら、どうしたらいいか誰かに相談できる空気が、あったらいいです(ω)」

===引用終り===

僕はこの年になっても、よく友達と喧嘩をしてしまう。それは僕が短気だからだ(大体僕が悪い)。喧嘩の理由もくだらないことが多くて、気持ちが冷めてしまうと、些細なことで喧嘩をふっかけた自分が恥ずかしくなる。

でも、僕が喧嘩をふっかけるのは、僕の心の奥底の中で、喧嘩の相手ともっと分かり合いたい、もっと近い関係になりたい、と願う心が少なからず起因しているのではないかと最近気付いた。いくら気の合う友達であっても、全ての価値観が合うわけではないし、付き合いが深くなるほど、気に食わないところだって見えてくる。いい大人であればそのくらい目をつぶってもいいのだけど、僕はそこまでできた人間ではないので、気に食わないところもあるとわかっていながら、「僕たち友達!(なんて実際には言わないが笑)」なんて舌がザラついちゃって言えないし。。

でも何にも考えず喧嘩をふっかけてるわけでもなくて、喧嘩をするのにも勇気がいるのよね。引用のような陰湿ないじめっていうのは、その勇気が持てなかったり、勇気があっても行動に移しづらい空気が形成されていることが原因なのかな、と思った。