シーソーの上のボール。

今夜のテレビで、「沈まぬ太陽」とテレ東のマザーハウス特集を立て続けに見た。乱暴に分類すれば、それぞれ昭和の企業と社会、これからの時代の企業と社会の姿が描かれていたと言える。どっちがいいとかダメだとか言うわけではない。

それぞれの企業の姿を見て、案外企業やとりまく社会のかたちなんてのはたやすく変わっていくんだろうなと感じた。そして老舗と呼ばれる企業は、その社会の変化を感じ取って適切に対応してきたからこそ、老舗企業としていまの社会に存在し得ていることを改めて感じる。

誰もが当たり前だと思っていたことがいつのまにか当然ではなくなっている。見向きもされなかった商品が、いつのまにか人々の間に浸透している。

にもかかわらず、人間の意思はいまの状況がずっと変わらずに未来永劫続くものだという錯角に陥りやすい。例えばものづくり信仰だとか、大企業信仰だとか。人間は企業よりも、こと意思の柔軟性においては、かたくなで、育った環境に左右されやすいのだと思う。加えて、一部のお役所も企業と比較すると、社会の変化に柔軟に対応しているとは言い難い。柔軟に対応しなくともひとまずは生きていくことができる状態にあるからだと思う。とはいえ、日本には「空気を読む」という言葉があるように、いったん社会の空気が一方向に染まりはじめると、その空気は瞬く間に伝染していく。シーソーの上に置いたボールが、片一方からもう一方に動くように。

こういう閾値のような考え方は、マーケティングの世界では常識なのかな?僕はそういうことを学ぶ機会がなかったので知らなかった。もしかしたら、ある一部分のマーケティングに秀でている人でも、その前提条件を疑うという作業を無意識に省略して、錯角の罠に陥りがちなのかもしれない。


それはそれとして、「沈まぬ太陽」自体は重厚で見ごたえのある作品。特に牛丼屋の親子のシーンがよかったな。