矜持。

名人戦第1局は2日目の夕方、挑戦者の行方八段がで投了を告げ、羽生四冠の先勝となった。名人戦史上最短手数、60手での投了だった。局面はまだ中盤といったところ。中央での小競り合いで後手羽生四冠がわずかにリードしていたが、お互いの玉の周りは手付かずである。

それでも行方八段が投了を告げたのは、羽生四冠ならばこのリードから逆転を許すはずはないというある種の信頼感、敬意だったのではなかろうか。行方八段は粘りの気風でも知られており、勝負をあと何十手も続かせることはできたろうが、名人相手にそのような将棋を指すわけにはいかない、伝統ある名人戦の歴史にそのような棋譜を残すべきではないという矜持によって、頭を下げることを選んだのではないだろうか。

短手数ではあるが、内容の濃い将棋だった。はるか先の局面を思い浮かべながら、目の前の一手を選んでいく。先週まで行われた電王戦、コンピュータとプロ棋士との戦いにはない種の空気が盤面には漂っていた。羽生四冠は局面を操り、行方八段の予想もしていなかった手を繰り出してペースを掴んだ。まるでいつか来るコンピュータとの戦いを見据えたかのような指し回しだった。

人間も進化している。そう思わせる一局だった。将棋というゲームはこの先どこまで掘り下げられていくのか、どこまで掘ってもまだ奥行きが残っているのか、そんなことを考えていた。