追体験。

息子が泣くときには、必ず予兆がある。脚を持ち上げてはぐっと突き出してみたり、まるで気分が悪いかのように腕をぐにゃぐにゃと回してみたり。そうして表情が歪んでくると不意に口が開き、まだ歯が一本も生えていない歯ぐきを見せて泣き声を出す。泣き声はそれなりのボリュームがあるが、まだまだ可愛いらしいもので、おっ泣いたかと余裕をもって迎えられるような声色だ。すぐに抱き上げてみせれば彼の思うツボ、しばらくは泣かせてみて、その姿をじっと見る。ひと声あげただけで、すぐにケロッとした顔に戻ることも多い。

産まれてすぐに抱きかかえた時は、弱々しい声を断続的に出しているだけだった。新生児室のガラス越しに見る姿はほとんど眠っていて、周りの新生児が皆泣いているのに1人だけ眠り続けているくらいに落ち着いていてマイペースだった。泣く姿を見るのはわが家に来てからのことだ。

泣いている姿を見ていると、31年前を想像する。31年前、父親は同じような気持ちで産まれてすぐの僕のことを見つめていたのだろうか、と。これからの日々は、初めての経験の連続であり、なおかつ、父親のたどってきた道を追体験する過程なのだろうか、と思う。