firesign.

ここ2年以上連絡を取れていなかった人と、久しぶりに連絡を取ることができた。もう死ぬまで言葉を交わすことはできないかもしれない、と思っていただけに、本当に嬉しかった。

その人は生来抱え持つ苦しみと付き合いながら生きている。その足かせはあまりにも重く、普通の人であればとっくの昔に押し潰されているような苦しみである。神様は人を選んで試練を与えるのだろうか、と思わざるを得ない。

しかしその人は何度も潰れそうになりながらも、なんとか立ち向かい続けている。本当に生きる力の強い人だと思う。最初それはその人自身の強さなのだと思っていたのだが、最近になってそれは、その人が周りの人に与えた力がめぐりめぐってその人自身の力となっているのではないか、と思うようになった。簡潔に言えば、誰かのために力を尽くし、生きようとしたことが、自分自身が生き抜くための力にもなっている、ということである。

その人は、本当に他人のために手を抜くことのない人であった。その信念は驚くほど効果的に人の心に(特に子どもの心には)突き刺さるものだった。たとえ長年姿を見せなくとも、その人の存在は、出会って心を通わせた幾多の人のなかで生き続け、けして忘れることのできないものであった。その、幾多の人のなかで生き続けた、という事実こそが、めぐりめぐってその人自身を生かしていた、支えていたのではないかと思う。なんとも逆説的な話であるが、僕はそう確信している。

★★★

ここからは自分で結論付けたなんとも矮小な話になっていく。今回僕の感じたことから言えるのは、人間は自分のためではなく誰かのために生きることで力を得るものなのだ、ということである。自分さえよければいい、という考えの終点にはなにがあるだろうか、そこで得られる優越感や満足に比べて、誰かのために生きることで得られるものは、短期的にはないかもしれないし、すぐに目に見えるものはわずかでしかないだろうが、中長期的には意図せぬ形で豊かなものをもたらしてくれる、ということである。それはなかなか明確な形ではないし、見えそうで見えないものなのだが、辛い環境であってもけして消えることなく、むしろ力強さを増して支えてくれるものなのだと思う。

★★★

春になれば会いに行けるだろうか。何から話していいのかわからないくらい、積もる話はたくさんある。誰かのために生きることを身をもって表してくれたその人の生き方に、僕はまだたくさん教えてもらうことがあるのだ。