金曜日の東京。

Twitterでふとひとことだけつぶやくつもりが、ぽろぽろと言葉があふれてきたので相当溜まっていたんだなぁ、と思いこちらにも残す。

★★★

先週金曜日、久しぶりに溜池山王に戻ってきた。今月頭まで、約6年半オフィスのあった場所だ。たった3週間の間に、新しいコンビニが建っていたり、店が変わっていたりで変化に驚く。毎日会うよりたまに会う子どもの成長に気付くことと同じようなものだろう。

しかしそこでは懐かしいと言うべきか、聞き慣れた響きが聞こえてきた。スピーカーを通じた声である。その音量は街の空気を支配しているものの、音が割れていることもあり内容はほとんどわからない。かろうじて聞き取れるのはプロレスのマイクパフォーマンスのような聞くに堪えないフレーズだけだ。

この地で仕事していた頃、このように外から街宣の声が聞こえてくることは月に数回あった。街宣がしばしば行われていた場所からわがオフィスまでは200mほどはあったが、ひどい日には電話の相手の声が聞こえづらいほどであったから、もっと近い場所にオフィスを構えたり店を構えていれば状況は推して知るべしである。しかも今までの街宣はたいていはお昼どきを中心に1時間程度で終わるものだったのが、少なくともその日溜池近辺に滞在していた3時間近くの間じゅう、途切れることなくその罵声は聞こえてきた。

自民党石破茂幹事長が、おりしもこの日のブログにて、「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」と批判した。街宣活動の声は日々聞こえているだろうし、この日の声が僕と同じくことさら酷く感じたからではないだろうか。僕も政治的にはニュートラルだったけど、この地で聞いたり目にする街宣、デモのどぎつさには本能的な恐怖を感じた。口には出さないけどあのあたりで働くどのくらいの人が同じようなことを感じただろうか。そして、どれだけ気分を害されているだろうか。

街宣やデモに、本当に周りの人に伝えたいという気持ちはあるのだろうか。どんなに論理が通っていても、人々の印象は非論理的な要因に左右される。人々の印象を、心を動かすやり方が絶望的に間違ってはいないだろうか。仕事や日々の営みを妨害されながら、その主張をどうやって共感し、理解できるだろうか。弱者の代弁を叫ぶ人は、自身の声に身をすくませながら脇を歩く人の気持ちをわかっているだろうか。

そういう意味では、とある団体の夕方にデモをやろうという試みは小さな前進だとは思う。工夫しだいで、共感の波を作っていく方法はあるはずなのだが、それすらできないような人たちには、たとえワンイシューであろうと国家運営を任せる気にはなれない。