かっこつけの精神構造。

他の人がどうかは知らないが、少なくとも自分は『かっこつけ』だと思う。他人からかっこ良くみられたいという気持ちを抑えることができない。

ただ、かっこつけていると自分で自覚する時には、歯が浮くような違和感を覚える。これは話を盛っていることに対する罪悪感なのだと思う。自分が違和感を感じている時に、それが周りにも伝わっているのかはわからない。他人を見るときに、「あ、この人かっこつけているな」とか「話を盛っているな」と気付くこともあるが、実際にそうであっても見抜けないこともあるのだろう。

僕自身の場合、かっこつけようとしても相手にバレていると思っているので、かっこつけてしまった後はいつも恥ずかしい気持ちになる。それでもかっこつけるのをやめられない。かっこつけようとするのはもはや人間の本能なんではないかと思う。自分で自分をかっこいいと思えた時に、脳内に快楽をもたらす信号が出るのだと思う。かっこつけようとするのは誰かのためではなく自分のためなのだ。

見せかけのかっこ良さに騙されるということはあるだろう。短期的だったり断片的な付き合いであれば、騙し騙されたままで押し通すこともできる。お互いにその方が幸せなこともあるだろうし、一概に否定することでもないとは思う。最初は見せかけだったとしても、努力して見せかけの自分に追いつくことだってある。大きくなるためにわざと虚勢を張ることも立派な作戦だとは思う。

結局のところ、かっこつけとは仮の姿なのだと思う。本来の自分を仮の姿に速やかに近づければ、それはかっこつけではなくなるのだが、いつまでも仮の姿でい続けるから、かっこつけはかっこ悪いと評価されるのだ。そして一度かっこつけてしまうと、化けの皮が剥がれた時のかっこ悪さとの落差が高くなり、かっこつけるのをやめられなくなる。どこかで本来の自分をぐんと伸ばさない限り、かっこつけている自分に追いつくことはどんどん難しくなる。そしていつか化けの皮が剥がれてしまうか、雲隠れせざるを得なくなってしまう。

自分のことを棚に上げてではあるが、かっこつけている(のがバレている)人のことと接すると、微笑ましさと嫌悪感が入り混じった複雑な気持ちを覚える。かっこつけている人と会話しようとすると、自分も同じ土俵に乗っていかなければ話の調子が噛み合わなくなるのだ。そこで自分のペースを貫き続けるほど冷徹になれなかったりもする。なのでかっこつけている人とコミュニケーションを取るのはしんどい。そんなことを言っておきながら自分も、かっこつけたりすることもあるのだからたちが悪いのだが。