『夕凪の街、桜の国』。

また「終戦記念日」がやってきた。

今のオフィスからは首相官邸がそう遠くないので、節目となる日は毎年拡声器から大音量のアジテーションが聞こえる。溜池山王駅前の横断歩道に車を止めて、演説が行われていたりもする。

戦争のことはよくわからない。僕にとっての戦争の記憶は、田舎のじいちゃんが白い肌着をめくって見せてくれた腹の弾痕だけである。そのじいちゃんも15年近く前に死んでしまった。だから実感がない。戦争に対して、無理に何らかの気持ちを込めてもそれはまやかしでしかないから、特別な感情もない。

小学生の頃に「はだしのゲン」を読んだ。リアルな描写に驚いた。気持ち悪いのだが、ページをめくるのをやめることができない。読み終わっても、凄惨なシーンが脳裏から離れない。夜になるとうなされた。

今年になって初めて、「夕凪の街、桜の国」を読んだ。

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

最初の短編、「夕凪の街」では、1955年の広島の淡々とした日常が描かれている。それだけに、みなが心のうちに原爆のことを潜めていること、そしてちょっとしたことをきっかけにそれらが思い出されるさまが鮮明に浮かんでくる。変に美化されたり、ドラマチックに描かれているわけではない。作者も、この作品を通して特定のメッセージを伝えようとはしていない。拡声器で叫ぶことと対極の位置にある。しかしながら、拡声器で叫ぶよりもずっとずっしりと伝わってくるのだ。じわりと場面を反芻してしまうのだ。

「桜の国」では、被爆に対する差別がテーマとなっている。テーマといっても、あくまでさりげなく描かれている。僕は広島や長崎の被爆者に対する差別については気にしたこともなかったし、差別を受けることも想像できなかった。しかし、今の時代の僕は違う形でその差別を目にしている。原発事故が作り出した差別である。原発事故はある意味では原爆よりも多くの人が広く薄く影響を受けた事象だったという意味で、また違う示唆をもたらしたのだが、原爆のことがあって、社会的にも科学的にもより成熟しているはずの現代社会で、科学的根拠に乏しくかつレベルの低い差別が未だに行われてしまうことに、人間とは何なのだろうかと考え込まざるを得ない。

この作品は原爆の話だが、原爆を超えた普遍性を伝えている。人間が誰しも持つそれぞれのコンプレックスを、どう抱えながら進んでいくか、そのヒントが記されている。コンプレックスから逃げずに決意を固める人間の姿は、強くて美しい。