それぞれの「巡礼」。

誰だって、「逃げた」経験があると思う。「逃げる」とは、ここでは人間関係から逃げたことを指すことにする。これまで、いろんな人が僕の目の前から逃げていったのを見てきた。そして、かく言う僕もまた、いろんなところから逃げてきた人間である。

「逃げた」理由としては、自分を演じるのが面倒臭くなったり、価値観の相違や気に入らないことが我慢できなくなったり、心機一転を図ろうとして今までのつながりを絶ったり。「逃げる」かたちとしては、基本的にはそっと姿を消すことが多いだろうが、強烈な捨て台詞や、大げんかをして去っていくことも。やはり、最後に残した爆発が大きいほど、「逃げた」ことを振り返ったり、原状回復するためのハードルは高くなる。

「逃げた」と「逃げられた」に違いはあるだろうか。うまく言えないが、違いがあるとすると、「逃げられた」状態とは自分から能動的に関係を修復しようと働きかけることが難しいことを指すのではないか。「逃げられた」方だけがいくらアクションを起こしても、「逃げた」方が向き合わなければ状況は変わらない、そんなこともあると思う。「逃げた」ー「逃げられた」になる関係も、双方ともに「逃げた」ー「逃げた」になる関係も世の中には存在するように思う。自分では「逃げられた」と思っていても、実際のところは自分もまた「逃げた」のであった、という都合のいい解釈の捻じ曲げも、よくあることだと思う。そもそも、人は誰しも自分が「逃げた」ことについて無意識に正当化しがちである。「逃げた」という事実と向き合うことは苦しくつらい作業であるから。向き合わずに生きようとすることは責められない。

自分が「逃げた」ところに戻って、逃げた人たちと向き合えば、人生に新しい道が開けて、違う世界が広がるのは間違いないはずだ。それなのに、つまらないプライドのせいだったり、振り上げた拳の収めどころがうまく見つからなかったり、どんな顔して戻ればいいかわからなかったり、戻ることなんてそもそも必要ないんだと無理に(無意識に?)自分に思い込ませていたりして、戻るための一歩を踏み出せないでいることは少なくない。

戻ることを称賛するわけではない、でも戻って「逃げた」人たちに向き合ってみれば、どんなことが起こるだろうか、想像してみるくらいはやってみるべきなのだ。プライドや恥ずかしさや戸惑いがあるのならば、それが実際はどんなものなのか、見つめてみればいいのだ。

というのが、この本と僕が出会って感じたこと。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年