犠牲と責任について。

桜井和寿の歌詞に「例えば誰か1人の命と 引き換えに世界を救えるとして 僕は誰かが名乗り出るのを 待っているだけの男だ」というものがある。福島第一原発事故の際にどれだけの人がこの歌詞を思い出しただろうか。

3月15日に東電が官邸に原子力発電所からの撤退を申し出て、当時の菅直人総理に拒絶されたというエピソードが残っている。そもそもの話として東電が現場から撤退せざるを得ないような事態を想定していなかったことはひとまず置いておいて、撤退せざるを得ないような事態になった際に、どのような判断をとるのか、その判断基準が定まっていなかったのが2年前の日本であり、ひょっとすると今もその基準は定まっていないのかもしれない。

同様な事態においてどのような判断を下すか。中国の場合はまず間違いなく少数の決死隊が犠牲になるはずだ。そしてその判断自体も公にされない可能性がある。アメリカの場合も、そのような事態に対応する部隊が編成されている。そしてアメリカではその部隊がヒーローとして祭りあげられるはずだ。ヨーロッパではどうだろうか。人権に対する観念が極端に発達しているがゆえに、撤退の選択を採ることが充分に考えられる。そして撤退の道を選んだ現場の部隊に対しての批判もそれほど起こらないのではないかと思う。たとえ現場の部隊が引き起こした事故により、多数の国民に被害がふりかかったとしても。

結局のところ日本は撤退は許さない、のこのこと帰ってくれば皆が許さないという論理で、撤退を拒絶した。現場の部隊の決死の努力により東日本からの国民退避という最悪の事態は免れたが、これは完全な結果論にすぎないし、判断の根拠も褒められたものではないように僕は思う。

ひとつの国家と、数十人数百人の命はどちらが重いのか。この命題に対してあまりにもなし崩し的にものごとを考えていないだろうか。いくら世論誘導されたからといって、原子力発電政策を進めることに暗黙の承認をした国民一人ひとりが、それに伴うリスクを薄く広く負担する義務まで放棄してしまうのはおかしくないだろうか。ましてや被害者ヅラをするなどというのは恥ずかしいことではないのか。

東日本大震災のことも、原発事故のことも、忘れるはずのないことでありながらも、記憶が薄れ、次に同じような事態が起こった際のリスクの負担についての議論がなされないまま、なし崩し的にものごとが進んでいこうとする。個人の考えとしては、原子力発電の利用に反対はしないけれども、利用を進めるのであればなにかあった時は国民全員で責任を共有し、リスクを背負うという意思統一は計っておくべきだと思っている。曖昧なままに進め、なにかあった時は現場に責任を負わせるのは今回限りにするべきだ。