与える人、与えられる人。
長年慣れた環境から、新しい環境に移って仕事をしているせいか、寝ても寝てもなかなか眠気が取れなかったので、思い切って外で昼寝をしようと等々力緑地に行ってみた。ランチを摂ってから芝生にアルミシートを敷いて寝転ぶ。秋らしい冷たい空気の曇り空だったが、空を向いて寝転がってみると意外にも強い日射しを感じる。ほどなく意識が遠のき、上の空で会話をしながらも身体は眠りについていた。1時間くらい経っただろうか、すくっと目を覚ますと、毎朝の目覚めとは全く違う感覚を覚える。空の下で眠ることのなんと気持ちいいこと。
気分がいいので、公園の鉄棒にぶら下がる。両腕にかかる自分の重さが、いつの間にこんなに大きくなったのだろうと驚く。サッカーボールが転がっていたので蹴ってみる。ボールを操る自分の脚の動きが、頭で描いたイメージとずれている。長年自転車を漕ぐくらいしか運動をしてこなかったうちに、自分の身体をコントロールすることが非常に下手になっている。
★★★
最近出張絡みで実家に帰ることが増えた。今月に関してはほぼ毎週1泊以上している。結婚してひとつの所帯を持ったはずなのに、実家に帰ると未だ「子ども」の身分であり、未だ与えられる存在である。親と子という関係から考えればある意味でこれは死ぬまで変わらないのかもしれないな、とも思う。
親と子の関係に限らず、まだまだいろんな場面で僕は与えるよりは与えられて生きている場面が多いように思う。仕事でも、自分で掘り起こした仕事というよりも他の誰かが取ってきた仕事を請け負っている場面の方がまだまだ多いし、全ての責任を自分で背負って取り組めているかというと自信がない。仕事以外でも、自分で引っ張っていくというよりは誰かに引っ張ってもらうことが多い。これまでを振り返っても、自分が他者に与えたものよりも与えてもらったものの方が圧倒的に多いと思う。
周りを見ても、与えている人と与えられている人とが発するオーラは違っているように思う。与えることは、与える相手について自分が責任を背負うということだと思う。そして責任を背負った人間の姿は僕にとって気高く見える。例え自分がやりたかったことをいくつか我慢してでも、相手のことを受容して、与える存在であることには価値がある。
「与えよ。さらば与えられん」という言葉があるけれど、その通りに、与える存在である人は与えることによって自分もまた新しい力を与えられているのだと思う。最近立て続けに生まれた友人の赤ちゃんの写真を見ながら、そんなことを思った。