余生。

大学生の頃、教員免許を取得するために、介護等体験という集中科目を受ける必要があった。正確には受ける、ではなく名称のごとく施設に体験に行くのである。約一週間、僕の場合はデイサービスの施設でお世話になった。

つくば市の東のはずれにある施設なので、マイクロバスに乗せられて通ってくるのは穏やかな田舎のお爺さんお婆さんといった風情の方が多かったのだが、そのなかで1人新参者の僕から見ても明らかに頑固なお爺さんがいた。周囲の施設利用者とも全く言葉を交わさず、日がなムスッと口を真一文字に結んで前を見つめていた。昔は学校の先生をしていたらしい。特に認知症がはじまっているわけでもなく、むしろ今でも頭の回転の速そうな顔をしている。施設に通い出したことになにか不満があるのか、もともとそういう人なのか、僕はその人に興味を覚え、少しでもそのいきさつを知ってみたい、というよこつしまな衝動にかられたが、結局そこまで仲良くなることもなく期限の一週間が終わってしまった。

そんなことがふと思い出されて、余生ということについて考えが至った。僕の余生はいつからはじまるのだろうか、余生がはじまってしまえば僕はどんな姿を周りに見せるのだろうか、周りの人はその姿を見てどう思うだろうか、などと考えが及んだ。

余生にも、単に人生における余生だけでなく、学生としての余生、勤め人としての(あるいは○○社における)余生、特定の活動のなかでの余生などなど、細分化されたもののなかにそれぞれ余生があるように思う。さらに言えば人に限らず組織やムーヴメントとしての余生もある。もちろんなかには余生にあたるものがなく、突然に終焉を迎えるものもあるはずだ。

余生は年老いてから迎えるものでもない。学生の身分を終えてすぐに余生に入る人もなかにはいるだろう。どんな状態をもって余生と称するか、表現するのは難しいが、気持ちのありようが大きな要因になっていることは間違いないと思う。自分でそのような自覚がなくとも、はたから見れば余生を過ごしているように見えることもある。

余生として過ごす時間は一見淡々としているように見えるが、実際のところはそれまでの時間以上に良くも悪くもその人らしさが現れるのではないかと思う。それまで長年抑えていたタガが外れたり、心の奥底に隠していた意識がストレートに表れてきたりするのだと思う。それだけに、余生を過ごす姿を見ると切なくなるのだろう。