あふれる情報との付き合い方について。

また長野に行く。おそらくもう一度二度くらいは行くことになる。標高1,500メートルを越えるところでも暑さを感じるのだから、首都圏は相当の気温になっていたのだろう。なかなか出口が見えない案件になっているが、ひとつずつ自分の力で絡まっている糸をほどいて、真実に迫っていかなければ、出口にはたどりつけないのだと思っている。近道での到達や中身をあいまいにしたままのなし崩しの解決はもはやあり得ないと考えている。

長野からの帰り道、情報の扱い方についてぼんやりと考える。案件にはいろんな利害関係者がおり、それぞれが情報を持っているが、どの情報が真実でどの情報が真実でないのかわからないことがたくさんある。故意に真実でない情報を流している人もいれば、真実でない情報を真実だと吹き込まれ、それを信じきっている人もいる。こういう状況で、どの情報を拠り所にロジックを組み立てていくべきなのか、情報に対してどのような姿勢で扱えば、真実にたどり着けるのか、考えている。

まず、利害関係者の人となりやそこから得られた情報の内容だけで、情報の真偽を判断することは危険だと考えている。○○さんの言うことは信用できない、と言う場合でも、○○さんが出所の情報のなかには必ず真実も含まれているはずであり、その情報を含めて否定してしまえば、たちまちロジックは袋小路に入り込む。全ての情報に疑う余地がある、との前提に立って情報を整理していくべきではあるが、情報の真偽について自分の主観だけで判断を下すことはかえって自分の首をも絞める行為となる。

だとすれば、「○○さんの情報のなかで何が真実か」ということをどう見極めるか、ということになってくるが、この真偽の判断については、やはり書面ないしは現場の実地調査にあたるしかないのだろうと考えている。なんだか犯罪捜査のようであるが、人的証拠よりも物的証拠である。利害関係者から得た情報について、書面や現場にある事実と突き合わせて、整合性のある部分のみを抽出してロジックを組み立てていくしかないのだと考えている。

この案件について、いろんな人と共同で仕事をしているが、数多あふれる情報に対して先入観なく情報を整理できている人はほとんどいないように見える。かくいう僕自身もなかなか情報に対してニュートラルに接することができず、壁にぶちあたったり、頭に血が上って適切な行動をとれていなかった。他者に頼ることはあっても、情報自体は自分の足で得たものを積み上げていかなければならないのだと思う。そしてこれはこの案件や仕事に限ったことでもないのだと思う。