陽炎。

名古屋駅から、近鉄名古屋線の急行でひと駅、近鉄蟹江駅に降り立つ。ひと昔前にタイムスリップしたような古ぼけた駅前から村営バスに乗って、愛知県飛島村というところにいく。村と言っても名古屋市に隣接する工業地帯である。もともとなにもなかった湿地帯が水田になり、そこにぽつんぽつんと工場が建っている。社会科の時間に習った、輪中と呼ばれるような地域にほど近い。たくさんの小舟が停泊する、小さな川をいくつも渡る。この湾岸地帯には名だたる製造業の工場が林立していて、おかげで飛島村は財政力の強い自治体として有名だ。中学生までの医療費は無料だし、生活サービスや節目の祝い金が充実している。やけに立派な村役場が、遠くからでも見える。平べったい景色を、夏の日差しが照りつける。陽炎の立ちのぼりそうな昼上がり。地図を片手に歩く。通りがかったお寺の境内は、まるで時間が止まっているようだ。改造三輪車をこいだ婆ちゃんが、ゆっくりと僕を抜かしていく。青々とした稲穂が風にサラサラ揺れる音が聞こえてくる。

★★★

帰りの電車に、週刊誌を2冊抱えて乗り込む。小説やエッセイは時々読んでいるのだけど、わざわざ週刊誌を買うのは珍しい。普段Web上のコラムや記事にはひと通り目を通しているので、それほど目新しい記事はないし、読者の目を引くがために、記事のつくりの粗さが目についたり、事実と違う箇所を目にしたりもするけれど、雑誌ならではの良さとして、普段能動的には読まないような記事に出会ったりもする。最近奥さんが取りはじめたことにより6年ぶりくらいに毎日読むようになった新聞についても、同じような効果を感じる。こういうことを、情報の誤配と呼ぶのだろうか。

久しぶりに読んだ週刊誌の記事は、案外まともに作られているように感じた。電車内での吊り広告に踊る見出しはあくまでも「釣り」なのだ。いくら週刊誌とはいえ、事実を曲げて伝えることのリスクは充分にわかっているわけで(それでも事実無根の記事を書いて訴えられることもある)、冷静に周辺知識を整理したうえで読む分には、新しい視点や問題意識を投げかけてくれる存在となり得ると思う。しかしながら、見出しに煽られたままに偏った理解をしてしまう人も少なくないのではないかと思う。奇しくも「虚構新聞」の記事を真に受けた人が続出したことが最近話題になったこともあって、そんなことを考えた。