思考と心。

GW後半に突入。けっこう余裕をもって準備を進めてきたつもりではあったはずが、直前になってバタバタ笑。今回に限らずいつも僕はこんな感じ。

★★★

ここのところふと、人間の心と思考とが、離れたところにある全く別のものなのではないかと思うことがある。ちなみにここでいう思考には、理性や感情が含まれる。

普段人はみな思考をしながら生きている。夢や目標(戦争のない世界をつくりたい、震災復興の役に立ちたいなどといったマクロなものから、キレイになりたい、お金を稼ぎたいといったもの、果てはランチに◯◯を食べたい、といったミクロなものまで)を常にぼんやりと頭に浮かべて、それを成し遂げるべく日々生きている。

夢や目標を達成することができたときに、種類の違いや大小の差はあれ、人は嬉しさを感じる。しかしながらそれは「思考」レベルでの嬉しさである。「心」のレベルで嬉しさを感じるかどうか、は全く別の問題になるとだと思う。「思考」のレベルの欲求をどれだけ満たしても、「心」のレベルの欲求を満たすことには全くつながらないし、「思考」のレベルを満たす手段によっては、「心」にある嬉しさのゲージをどんどん減らすことにつながりかねないのではないか、とすら思う。足りていないのが「心」の嬉しさであることに気付けず、「思考」の嬉しさのゲージを埋めることに躍起になってしまったり、他者を傷付けてしまったりするのは悲劇だ。僕も同じように他者を傷付けてしまったことがあるが、気持ちがすっきりするどころか、ますます自分の矮小さを感じるだけであった。

そして、「思考」で感じる嬉しさには、嬉しいと思い込んでしまうこともできるが、「心」で感じる嬉しさに嘘をつくことはできない。また、「思考」のレベルで瞬間的に嬉しさを感じたとしても、その嬉しさが時を経て、後悔に転化することがあると思う。それはまさに、「思考」のレベルでの嬉しさと「心」のレベルでの嬉しさに乖離があった、ということであろう。

「思考」のレベルの嬉しさを積み重ねることが、一概に否定されることではないが、振り返って「心」が喜ぶような言動を重ねていかなければ、「思考」のレベルでの嬉しさをどれだけ積み重ねても意味がないのだろう。そして、個々人だけでなく一部の企業や組織もそのことに気付き、既に行動を始めている。