かえりみる。

きょうも仙台へ。懸案の案件について一応の収束をみる。なかなか面倒な仕事もあるけど、じっくり腰を据えていくしかない。珍しく交感神経が鎮まらず、帰りの新幹線のなかでも眠いのに神経が昂ぶって眠れない状態が続く。基本的に副交感神経優位な僕にとって、こういう時間が続くと体調を崩したりしやすい。休息が必要である。

★★★

午後からの取引で、銀行の窓口でえらく待たされていた時に、カウンターの向こうに広がる世界を見ていた。絶望的なほどの待ち人数をテキパキと処理していくテラー。奥の応接室から聞こえてくる上得意客とおぼしきでかい声、可憐な女性行員と生真面目そうな若手男性行員のぎこちない会話、15時を過ぎて店頭のシャッターがゆっくりと下りてくる光景、不意に登場した役員とおぼしき男性行員の威厳たっぷりの歩く姿(そしてうやうやしく役員を迎えにあがる管理職)、ベテラン女性行員が独特の抑揚で発する落ち着いた「いらっしゃいませ」の声。。

ふと、社会人1〜2年目によく飲みに連れて行ってもらった隣の課の上司を思い出していた。あの頃、大げさでなく毎日のように飲みに連れていかれた。40代後半になって独り身のその上司は、おそらく給料のほとんどを飲み代に使っていたのではないであろうか。21時から22時に仕事を切り上げてから、行きつけの飲み屋で、耳にタコができるくらい同じ話を聞いた。自分でもよく辛抱して笑顔でうなづきながら聞いていたと思う。日中、僕が仕事でミスをやらかした時は、すぐさまアイコンタクトで「今夜、行くぞ」とメッセージを飛ばしてきた。その夜は僕が犯したミスのことを肴に飲むのだ。しかしながら、厭味なところは全くなく、彼の話は僕の頭にすっと入り、へこんだ心が少し勇気付けられた。いつしか終電の時刻を過ぎ、彼は僕に千円札を三枚渡してタクシーに乗り込んでいくのだ。

5年以上も前のことを不意に思い出すのはなぜだろうと考えた。あの頃、彼にたっぷりともらった愛情が、僕の身体のなかに残っていたのだろう、と思った。肉体的にも精神的にもえらく辛い日々だったけれど、それ以上に僕は愛情をもらっていたのだ、と気づいた。そして、改めて幸せな気分に包まれた。

それなりに歳を重ねて、いつしか僕を叱ってくれるような上司もいなくなった。叱ってくれる人がいない、ということは、常に自分で自分を律して、反省する機会を持ち続けなければならない、ということだと思う。それを怠ったり忘れてしまうと、自分のなかで崩れてしまうものがあるのだと思う。