演じる、ということ。

とある先輩の話をしたいと思う。

僕と彼とは一時期まるでコンビのように仲が良かった。彼は突拍子もない行動をするのが好きで、いつも周りの人を楽しませていた。彼ほどに人を巻き込んだり笑わせる才能のない僕は、なかば彼のフォローをするような形で、彼にくっついて一緒に楽しませてもらっていた。

一方で、彼は僕などよりもはるかに真面目な人間だった。時にそのベクトルがあさっての方向を向きすぎて、周囲とのバランスを崩すことがあったり、彼のやり方に僕自身疑問を抱くこともあったけれど、けして彼を嫌いになるようなことはなかった。そう思わせるくらい、彼はなにごとにも真摯に取り組む人だった。

彼の起こす突拍子もない行動は、もしかしたら全て演技だったのかもしれない、と近年になって僕は考えるようになった。周りを楽しくしたい、という彼の真面目な気持ちが、彼を演じさせていたのだと思う。演技だとしたらなおさら、僕にはその真似はできない。役回りを演じる、というのが僕は非常に苦手だ。冷静でいたい自分がすぐに出てきて、役になりきろうとする自分を現実の自分へと引きずり出す。演じきる、というのはそんな己に克つことだと思う。(そういう意味では、来たる自分の結婚式がいささか不安ではある。結婚式は「演じる」要素の非常に高いセレモニーだ。)

彼は僕を含めた数少ない人の前でのみ、素の自分を出していたように思う。普段自分を演じ切っている人の見せる素の姿ははっきり言ってつまらない。つまらないけれども、そこが一番人間らしかったりもする。彼の中で、演じている自分と素の自分の切り替えを、自覚的に行っていたのかそれとも無意識に行っていたのかはわからない。

久しぶりに会った彼は、僕から見ればもう演じることを止めていたように見えた。普段から自分を演じる人にとって、演じることを止めるというのは勇気のいることだと思う。ただ、だからといってずっと演じ続けるというのは非常にしんどいことであろう。

古代ローマに「人生は演劇である」という言葉がある。『素の自分』と思っていた自分の姿もまた、『素の姿と勝手に定義した自分』を演じているだけに過ぎないのかもしれない。素の自分、本当の自分なんてどこにも存在しないのかもしれない。この言葉の真の意図はそこにあるように思う。どうせ自分を演じるのであれば、自分自身の本当に好きな役回りを演じる人生でありたい。