『共喰い』。

友人が泊まっていったあとに残るほんわかした空気。他人の気配の残る自宅。空気を入れ替えて窓の外の陽光を取り込むだけで、そんな空気がリセットされてしまうように感じる。

★★★

芥川賞受賞会見で一躍有名となった話題作を読む。

共喰い

共喰い

まず全体の構成が秀逸だと思う。奇をてらったところは全くなく、一文一文の情景描写が全体にどのような水面のざわめきを与えるか、まで考え抜かれている。ひとつの文章を大事にしていることがこれほど伝わってくる作品は今まであまり読んだことがなかった。

内容自体はエログロで、嫌な読後感が残る人の方が多いのだと思う。僕もグロい表現を読んでいい気はしない。それでも、顔を覆った両手の指にスキマを空けてホラー映画の続きを見てしまうように、文章の続きを読んでしまう。僕のなかにも残虐性のかけらが残っている。内容自体に突飛なところはないので、やはり技法というかひとつひとつの文の表現に手が込められているところがこの本の見どころなのだと思う。

ひとつ興味深かったのが、この本の舞台となった町の描写である。地方都市のなかでも時代に取り残されたような集落が描かれている。この作品の舞台となった時代は昭和63年であるが、今なおこのような情景のまま時を刻んでいるような集落が、現実にある。銀行時代に外回りをしていたり、今の仕事で地方に出張に行った際も、ひょっこりとこんな雰囲気の集落が現れたりする。携帯電話のそれであろうが、カメラを取り出して写真を撮るのがはばかられるような風情である。そしてそこに住む人たちは例外なく「濃い」人たちである。そのような土地で過ごす時間が人を「濃く」させるのだろうか。東京の繁華街にいるような若者もそれはそれで怖そうな感じもするのだが、彼らには圧倒的に「濃さ」が欠けている。

昼間から町をうろついて、なにを生業にしているのかわからないオッサンや、少しでも隙を見せると一杯喰わされそうなオバちゃん、そして彼ら彼女らの予備軍となりつつある、僕とそう歳の変わらない人たち、学校を卒業したばかりの若者たち。

夜でも煌々と光を発するスーパーや、白い壁で造られた分譲住宅が建ち並びはじめ、そんな町がだんだんと片隅に追いやられていく。日本のあちこちに、あとどれだけあのような集落が残っているのだろう。そんなことを思い起こさせるような描写だった。もし僕に子どもができたなら、できるだけそんな町の空気を吸わせてやらせたいと強く思った。