福島について思っていたこと。

福島から栃木(足利)に寄って東京へ。移動が多くて尾てい骨が痛くなる。足利市を出る頃にはもう暗くなりはじめていて、陽が落ちるのが早くなったなと感じる。日本の標準子午線は兵庫県明石市を通っていて、関東はそこから東に500キロ近くあるわけだから、その分日暮れが早くなる。大学に入りたての頃、年末近くになると五時限目が終わった16時半にはもう外が真っ暗になっていて、驚いた記憶がある。

福島での仕事が早く終わり、次のアポイントまで時間があったので、大胆にも福島駅直結の銭湯で汗を流してみた。露天風呂に陽の光が差し込んで眩しい。震災後福島に初めてきた四ヶ月前はさすがに緊張感をもっていたが、それからもう五回も足を運んでいるし、こうやって昼間から風呂に浸かっていると、震災のことが随分昔のことに思える。福島市民の人たちも、完全に平静を取り戻しているように見える。それだけに、ふと立ち寄ったコンビニで、「週刊プレイボーイの見出し「福島市民はこうして政府に見殺しにされる!! 」なんて見出しを目にすると、なんだかなぁという気持ちになる。もちろん線量が高くなっているのは所与のこととして受け止めなければならないし、よりによって県庁前や市庁前が特に線量が高い事態にはなっているのだけど、福島市民や福島県民はけしてそのあたりの状況について見て見ぬ振りをしているわけでもないし、あきらめてしまっているわけでもない。この記事自体をちゃんと読んでいないからわからないけど、おそらく現地に入って感じたことをまとめた記事というよりは、東京で勝手に面白おかしく書いただけなんだろうなぁ、としか考えられない。別になにが正しいというわけではないけれど、「福島県」についてどう捉えているかということが、メディアや個々人の価値観や当事者性を測るリトマス試験紙のひとつになっているとすら思える。みんな立場や考え方はばらばらなのだ。いくら「頑張ろう東北」なんて言ったところで。

これは別にきょう悶々と考えていたことではなくて、六月頃に考えていたことなのだけど、ようやくこうして言葉に落とせた。というより、きょうの福島の雰囲気が、完全に平穏そのものだったので、もう言っちゃってもいいかな、という気持ちに至ることができた。

どうしても福島のことを見過ごせないのは、僕が「大阪市福島区」出身だからかもしれない。「フクシマ」の持つ響きが、かくも変わってしまったことになんとも言えない気持ちになるのだ。

次に行く頃には福島に冬が来ているはず。