闘争本能。

仙台から福島、郡山と下ってきて、2日間の日程を終える。最近の涼しい東京とあまり気温は変わらなかったが、東北は秋を飛び越して冬の入り口に来ている。今年の冬は何度か東北に行く機会がありそうだ。冬の東北(北海道も)には実は行ったことがないので、ひそかに楽しみにしている。本格的な冬が来る前に、少しでも被災地や被災者の方々が新たな道筋をつける一助になるような仕事ができれば、と思う。

★★★

前からうすうす気付いてはいたが、僕は人と競い合うのが苦手だ。闘争本能に欠けると言い換えてもいい。

勝負事全般に弱い、というわけでもないし、普段は強気なこともあったり、むしろ負けず嫌いなほうだとは思うが、「ぎりぎり」相手に勝てるか、という場面になった時に雑念が入ってしまって、無心で相手を倒すことができない。もっと言えば、相手を蹴落としてまで自分が勝ちたいと思えない。「ぎりぎり」負けた相手の悔しさを想像すると、力が入らなくなって、集中力が途切れてしまう。そうして自分が負ければそれもまた悔しいのだけど、相手よりも自分のほうが悔しさは少ないのかな、と頭のどこかで考えてしまう。「ぎりぎり」のところで躊躇してしまうのは、結局は相手にも失礼だし、自分の心が弱いとしか思えない。

そもそも僕は何億もの精子による、ひとつしかない卵子の争奪戦を勝ち抜いて生まれてきたはずなのに、競い合うのが苦手とは面白いものだ。僕はそうは思わないが、世間には子孫を残したくないと思う人もいるし、せっかくの命を自分で絶つ人もいる。人間の意思は生物としてもって生まれた本能よりも、後天的に形成される部分のほうが、意思決定において普段は幅をきかせているのだと考えざるを得ない(それでもなお、最終的には生物としての本能の方が強いと思う。周りの環境などによって後天的に形成される部分が全てだと錯覚している人が世の中に多いだけ、と僕は考えている)。人間界と自然界はかくも違うのかと思わされる。

相手を倒すくらいなら自分が負けたほうがいい、と思う心は人間界では「優しい」と評価されるかもしれないけど、自然の摂理からみるとなんの意味もなさないことだろうし、そもそもある程度の「力」を持っていなければ、それは「優しい」とも違う、ただの戯言でしかないのだろう。闘争本能を身につけるか、それができないのならば闘争本能など必要のないくらいに自分が力を付けるべきなのだろうね。自分の為にも、自分の守るべき周りの人たちの為にも。